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玉音放送

2012.08.16(17:55)

玉音放送全文
<原文>

終戦の詔勅


 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。
朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
抑々、帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽を偕にするは、皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々措かざる所、曩に米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て他国の主権を排し、領土を侵すが如きは固より朕が志にあらず。
然るに交戦已に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公各々最善を尽くせるに拘らず、戦局必ずしも好転せず。
世界の大勢、亦我に利あらず、加之敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。
而も尚、交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。
斯の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや。
是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。
 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。
帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉し、非命に斃れたる者、及び其の遺族に想を致せば五内為に裂く。
且、戦傷を負ひ、災禍を蒙り家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。
惟ふに今後、帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず。
爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。
然れども、朕は時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、以て万世の為に太平を開かむと欲す。
 朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。
若し夫れ、情の激する所、濫に事端を滋くし、或は同胞排擠互に時局を乱り為に大道を誤り、信義を世界に失ふが如きは、朕最も之を戒む。
宜しく挙国一家子孫相伝へ、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念ひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏くし誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。
爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。

御名御璽
昭和二十年八月十四日

<現代語訳文> 

 私は深く世界の大勢と日本の現状について考え、非常の手段によってこの事態を収拾しようと思い、忠義で善良なあなた方臣民に告げる。
 私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連に対してポツダム宣言を受け入れることを通告せしめた。
そもそも日本国民の安全を確保し世界の国々と共に栄えその喜びを共にすることは、私の祖先から行ってきたことであって私もそのように努めてきた。
先に、米国・英国二国に宣戦を布告したのも、我が帝国の自立と東亜の安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではない。
しかしながら、戦闘状態はすでに四年を越え、私の陸海将兵の勇敢な戦闘や、私の官僚・公務員たちの勤勉なはたらき、私の一億国民の努力、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦争における状況はよくならず、世界の情勢も我々には不利に働いている。
それだけではない。
敵は、新たに残虐な爆弾を使用して、何の罪もない多くの非戦闘員を殺傷し、その被害はまったく図り知れない。
それでもなお戦争を継続すれば、最終的には日本民族の滅亡を招き、そして人類文明おも破壊することになってしまうだろう。
そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子とも言える多くの国民を保ち、先祖の霊に謝罪することができようか。
これこそが政府にポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。
 私は日本とともに終始東亜の植民地解放に協力した友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。
帝国臣民にして戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると体中が引き裂かれる思いがする。
さらに戦場で負傷し、戦禍にあい、家や職場を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。
思うに、これから日本の受けるであろう苦難は、大変なものになる。
国民たちの負けたくないという気持ちも私はよく知っている。
しかし、私はこれから耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで将来のために平和を実現しようと思う。
 私は、ここにこうして国体を守り、忠義で善良なあなた方臣民の真心を信頼し、そして、いつもあなた方臣民とともにある。
もし、感情的になって争い事をしたり、同胞同士がいがみあって、国家を混乱におちいらせて世界から信用を失うようなことを私は強く懸念している。
 国を挙げて一つの家族のように団結し、子孫ともども固く神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志操を固く持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努めなさい。
あなた方臣民は私の気持ちを理解しそのようにしてほしい。

 天皇の署名と印璽
 昭和二十年八月十四日


<読み下し文>

朕(ちん)深く世界の大勢(たいせい)と帝国の現状とに鑑(かんが)み非常の措置(そち)を以(もっ)て時局(じきょく)を収拾(しゅうしゅう)せんと欲(ほっ)し茲(ここ)に忠良なる爾(なんぢ)臣民(しんみん)に告(つ)ぐ
朕(ちん)は帝国政府をして米英支蘇(べい、えい、し、そ)四国(しこく)に対し其(そ)の共同宣言を受諾(じゅだく)する旨(むね)通告(つうこく)せしめたり
抑々(そもそも)帝国臣民(しんみん)の康寧(こうねい)を図(はか)り万邦共榮(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは皇祖皇宗(こうそそうそう)の遺範(いはん)にして朕(ちん)の拳々(けんけん)措(お)かさる所(ところ)
曩(さき)に米英二国に宣戦(せんせん)せる所以(ゆえん)も亦(また)実に帝国の自存(じそん)と東亞(とうあ)の安定とを庶幾(しょき)するに出(いで)て他国の主権を排(はい)し領土を侵(おか)すが如(ごと)きは固(もと)より朕(ちん)が志(こころざし)にあらす
然(しか)るに交戦(こうせん)己(すで)に四歳(しさい)を閲(けみ)し朕(ちん)が陸海(りくかい)將兵(しょうへい)の勇戦(ゆうせん)朕(ちん)が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の励精(れいせい)朕(ちん)が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公(ほうこう)各々(おのおの)最善(さいぜん)を尽(つく)せるに拘(かかわ)らず戦局必すしも好転せず世界の大勢亦(また)我(われ)に利(り)あらず
加之(しかのみならず)敵は新(あらた)に残虐(ざんぎゃく)なる爆弾を使用して頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷(さっしょう)し惨害(さんがい)の及(およ)ぶ所(ところ)眞(しん)に測(はか)るべからざるに至(いた)る
而(しか)も尚(なお)交戦(こうせん)を継続せんか 終(つい)に我が民族の滅亡(めつぼう)を招來(しょうらい)するのみならず延(のべ)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし
斯(かく)の如(ごと)くは朕(ちん)何(なに)を以(もっ)てか億兆(おくちょう)の赤子(せきし)を保(ほ)し皇祖皇宗(こうそこうそう)の神霊(しんれい)に謝(しゃ)せんや 是(こ)れ朕(ちん)が帝国政府をして共同宣言に応(おう)せしむるに至(いた)れる所以(ゆえん)なり
朕(ちん)は帝国と共に終始(しゅうし)東亞(とうあ)の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に対し遺憾(いかん)の意を表(ひょう)せざるを得(え)ず
帝国臣民(しんみん)にして戰陣(せんじん)に死し職域(しょくいき)に殉(じゅん)じ非命(ひめい)に斃(たお)れたる者及(および)其(そ)の遺族(いぞく)に想(おもい)を致(いた)せは五内(ごない)爲(ため)に裂(さ)く
且(かつ)戦傷(せんしょう)を負(お)ひ災禍(さいか)を蒙(こうむ)り家業(かぎょう)を失いたる者の厚生(こうせい)に至(いた)りては朕(ちん)の深く軫念(しんねん)する所(ところ)なり
惟(おも)うに今後帝国の受(う)くべき苦難(くなん)は固(もと)より尋常(じんじょう)にあらず
爾(なんじ)臣民(しんみん)の衷情(ちゅうじょう)も朕(ちん)善(よ)之(これ)を知る
然(しか)れども朕(ちん)は時運(じうん)の趨(おもむ)く所(ところ)堪(た)え難(がた)きを堪(た)え忍(しの)び難(かた)きを忍(しの)び以(もっ)て万世(ばんせい)の爲(ため)に太平(たいへい)を開(ひら)かんと欲(ほっ)す
朕(ちん)は茲(ここ)に国体を護持(ごじ)し得(え)て忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんき)し常(つね)に爾(なんじ)臣民(しんみん)と共(とも)に在(あ)り
若(も)し夫(そ)れ情(じょう)の激(げき)する所(ところ)濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし或(あるい)は同胞(どうほう)排擠(はいせい)互(たがい)に時局(じきょく)を亂(みだ)り爲(ため)に大道(だいどう)を誤(あや)り信義(しんぎ)を世界に失(うしな)ふか如(ごと)きは朕(ちん)最(もっとも)も之(これ)を戒(いまし)む
宜(よろ)しく挙國(きょこく)一家(いっか)子孫(しそん)相(あい)傳(つた)え確(かた)く神州(しんしゅう)の不滅(ふめつ)を信(しん)じ任(にん)重くして道(みち)遠きを念(おも)い総力を將來(しょうらい)の建設に傾け道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)くし誓(ちかっ)て国体の精華(せいか)を発揚(はつよう)し世界の進運(しんうん)に後れさらんことを期(き)すべし爾(なんじ)臣民(しんみん)其(そ)れ克(よ)く朕(ちん)が意(い)を體(たい)せよ

御名御璽(ぎょめいぎょじ)
昭和二十年八月十四日





以上が終戦詔勅、玉音放送の中身である。
ここで、気付いた人も居るかもしれないが、マスコミで8月15日を迎える度に報じられる一文がある。
「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ」である。
この「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ」というのは、国民に対してのものではなく、陛下自身の決意の一文なのです。
この一文を悪用したのが、終戦後のマスメディアです。
この一文のみを読んでみると、恰も国民に対して、進駐軍の悪行に耐え忍で対処するよう求めたものと解釈してしまうのです。
ではマスメディアが、この一文を悪用する事でどのような益が得られるのでしょうか。
実は、当時の日本の報道は、進駐軍の犯罪を新聞等で記載することが禁じられていたのです。
ですが、当然犯罪が起これば、その事実を報じなければならないが、GHQにより進駐軍の犯罪を報じる事が禁じられている。
そこで考えたのが、主語である陛下を除外して、そこにあたかも国民に対しての発言ととれるよう「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ」の部分だけを切り取って繰り返し報じたのです。
 国民は、陛下のお言葉と思い忠実に進駐軍と在日の悪行に耐えたさえられたのです。
これが、戦後報じられた一つ目の嘘です。
では、次回は二つ目の嘘をブログで公開しますので宜しく!









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桜会創設の裏 三月事件

2012.03.09(22:28)




三月事件


コミンテルンと桜会創設の経緯

橋本欣五郎
1890年、福岡県に生まれ、30歳で陸大を卒業、参謀本部第二部ロシア班やハルピン特務機関、満州里特務機関を経験した。この経歴からわかるようにロシア畑であった。

1927年、トルコ大使館付武官になり、人生の大きな転機を迎えた。
トルコのケマル・パシャに面会する機会を得て、任地惚れを起し、ケマルの熱烈な心酔者となってしまった。
さらに悪くしたことに、スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキーが、1929年、イスタンブールに来訪、まもなくマルマラ海のプリンキボ島に移った。
トロツキーはここで4年間過ごすのだが、この時代のトルコは反英の延長で、ソ連と友好的であった。橋本はトロツキーの革命思想にも強い影響を受けた。

昭和5年(1930年)に帰国すると、参謀本部第二部ロシア班長となった。
さらに陸軍内に政治団体の結成を目論んだ。
これ自体違法性の強い行動であって、陸大卒のエリート(多くは省部軍人)を横断的に集めようとした。
手段は料亭で飲ませ、食わせ、芸者をあてがうことであった。

10月、その名前を「桜会」として、橋本欣五郎(砲兵中佐)、坂田義郎(歩兵中佐)、樋口季一朗(歩兵中佐)などの十数人が発起人となった。
従来からも陸軍には一夕会などの情報収集のため、あるいは懇親のための組織はあったが、政治団体は初めてである。
共産主義組織論の影響をうけたうえでの行動であったが、発想は突飛であり、大方の参加者は「冷やかし」「タダ飯」であった。
牟田口廉也、根本博、河辺虎四郎、土橋勇逸、武藤章、富永恭次、長勇、片倉衷、佐々木到一、辻政信らが参加したが、橋本の思想に共鳴し、じっさいの行動に移したものは少数である。

ただ、のちの時代の「政治屋」将校が多数参加しているのには驚かされる。


桜会の設立趣意書


一、熟ヾ帝国の現状を観るに、万象悉く消極に堕し、新進の鋭気は地を払ふて空しく、明治維新以来隆々として発達し来りし国勢は今や衰頽に向はんとし、吾人をして痛憤憂愁措く能はざらしむるものなり。

若しそれ斯くの如き状態を以て進まんか、吾人大和民族は到底現在に於ける世界的地位と名誉とを保持し得ざるは勿論、勢の趨く処史上の盛観を止めて遂に希臘・和蘭の班に堕し恨を千歳に残すべきは明明乎として明かなる処なり。

而して我国が斯くの如き状態に至りし所以のものは其因由するところ多々あるべしと雖も、吾人はまず其核心たるべき為政者の重大なる責任を指摘せざるを得ず。

試に眼を挙げて彼らの行動を見よ、国民の師表として国政を処理し、上陛下に対し奉り重責を担ふべきに拘らず、其大本を没却して国是の遂行に勇なく、大和民族興隆の原素たる精神的方面は悟として顧みず、唯徒らに政権物質の私欲にのみ没頭し、上は聖明を蔽ひ、下は国民を欺き、酒酒たる政局の腐敗は今や其極に達せり。

国民も挙げて此弊風を感知しあるも意気消衰せる現杜会の雰囲気に同化せられ、すでに何らの弾力なく政界の暗雲を一掃して邦家の禍根を剪除すべき勇気と決断とは到底之を求むるに由なく、国民は挙げて自ら墓穴を深ふしつゝある状態なり。

此時に当り辛ふじて少くも一定の主義と熱とをもって奮闘しつつあるを独り左傾団体にのみ見出さざるべからざるの奇現象は、果して吾人に何を教示するか。

而して今や此頽廃し竭【つく】せる政党者流の毒刃が軍部に向ひ指向せられつつあるは之を「ロンドン条約問題」に就て見るも明かな事実なり。

然るに混濁の世相に麻痺せられたる軍部は此の腐敗政党政治に対してすら奮起するの勇気と決断を欠き、辛ふじて老衰已に過去の人物に属すべき者に依りて構成せられある枢密院に依りて自己の主張せざるべからざる処を代弁せられたるかの如き不甲斐なき現象を呈せり。

軍部が斯の如き状態に陥りし所以のものは其原因一にして足らずと雖も、泰平の久しき古風漸く衰へ、一般将校に一定の主義方針と武士道の名に於ける熱烈なる団結とを欠如したるを以て第一義原因となす。

過般、海軍に指向せられし政党者流の毒刃が陸軍軍縮問題として現はれ来るべきは明かなる処なり。

故に吾人軍部の中堅をなすものは充分なる結束を堅め、日常其心を以て邁進し、再び海軍問題の如き失態なからしむるは勿論、進んでは強硬なる愛国の熱情を以て、腐敗し竭せる為政者流の腸を洗ふの概あらざるべからず。

二、現今の杜会を観るに、高級為政者の冒涜行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本家、華族、国家の将来を思はず国民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、頽廃文化の躍進的亢頭、学生の愛国心の欠
如、官公吏の自己保存主義、等邦家の為、寔【まこと】に寒心に堪へざる事象堆積たり。


然るに之を正道に導くべき重責を負ふ政権は何等之を解決すべき政策を見るべきものなく、又一片の誠意の認むべきものなし。

従つて政権の威信は益ゝ地に堕ち、経済思想政治上、国民は実に不安なる状態に置かれ、国民精神は遂次弛緩し、明治維新以来の元気は消磨し去らんとして国勢は日に下降の道程にあり。

更に之を外務方面に観るに、為政者は国家百年の長計を忘却し、列国の鼻息を窺ふことにのみ及々として何ら対外発展の熱を有せず、維新以来、積極進取の気魂は全く消磨し去り、為に人口食糧間題解決の困難は刻々として国民を脅威しつつあり、此の情態は帝国の前途上大暗礁を横ふるものにして、之が排除に向ひ絶叫する吾人の主張が為政者により笑殺し去られつつある現状は、邦家の前途を想ひ寔に痛憤に堪へざる処なり。

以上、内治外交上の行詰りは政党者流が私利私欲の外一片の奉公の大計なきに由来するものにして、国民は吾人とともに真実大衆に根幹を置き、真に天皇を中心とする活気あり明らかなるべき国政の現出を渇望しつつあり。

吾人固より軍人にして、直接国政に参劃すべき性質に非ずと難も、一片皎々たる報国の至誠は折に触れ時に臨みて其精神を現はし、為政者の革正、国務の伸張に資するを得べし。
吾人ここに於て相会して国政の衰運を概し、自ら顧みて武人の操守を戒むる故以も亦此の埒を出づるに非るものなり。



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40歳にもなるエリート軍人の檄、革命団体創立趣意書の内容である。
他の軍人はどのような感想をもったであろうか?

「天皇を中心」は、政党を排除し、国政を軍人団体によって牛耳るという意味であることはすぐわかったに違いない。
明治の自由・民権の時代であれば、このような独裁主張・寡頭制主張は誰も耳を傾けなかったであろう。
ところが、英米を除くヨーロッパでは社会主義者がそういった独裁制を是とする議論を吐いていた。

橋本の主義があるとすれば、自己の独裁だけを可能にする社会正義なき社会主義であった。



クーデターを視野に入れて、橋本は桜会を結成した。
趣意書には政権奪取を暴力をもってする、とは書かれてはおらず、桜会メンバーの大半ほ冗談程度しか受け取らなかった。
そのうえ、陸大エリート=省部軍人は実働部隊への指揮権はもっていなかった。
隊付になって部隊に配属されたとしても部下の将校や下士官への信頼を築くことは短期間では難しい。

橋本欣五郎は、このクーデターモドキを帰国後わずか1年もたたないうちに組織した。
なぜ、このようなことができたのだろうか?

レーニンの金

話は10年前に遡る。レーニンは、ドイツ革命が絶望的になると、アジアに目を移した。

ドイツ革命

1918年10月のドイツのウィルソン14ヶ条受け入れに伴う、国内の混乱そしてカイザーの退位が第1段階で、次に共産主義者の武装蜂起による街頭での武力衝突が第2段階とされる。

カイザーの退位によってベルリン市内のデモおよびキールなどでの水兵やその家族の反乱は11月までに終息しており、ここでは12月以降の共産主義者による武装蜂起を取り扱う。

社会民主党は戦時中から和平か否かをめぐり独立派と多数派に分裂していた。ただし、両者ともマルクス主義者を標榜していた。また独立社会民主党は1918年11月以降ソ連共産党による内面指導(初めはソ連共産党員の派遣にすぎなかったが、後半になると理論、運動方針ともソ連共産党の指導を受け入れるようになり国際共産主義運動の一部の色彩が濃くなった。1923年頃からは明確にコミンテルンのドイツ支部と化した。)を受けていた。
そしてこの内面指導を受け入れ暴力革命を目指す勢力が更に独立派から分離、スパルタクス団(スパルタクスはローマ帝国で奴隷を率いて戦った英雄。)を名乗った。




1920年代初頭、日本の労働者運動はアナボルの争いといわれた。
共産主義者とアナルコ・サンディカリストが互いに主導権を争っていた。
一番目だったのはアナーキストの大杉栄であった。
1920年、ボイチンスキーの意をうけて、張太雷(1926年12月、広州蜂起で戦死)が来日し、大杉栄と会い、2千円を渡すとともに「極東勤労者大会」への参加を呼びかけた。

当時の日本の共産党は暁民共産党と呼ばれ力がなかった。近藤栄蔵が目立ったが、1921年秋、当時上海にあったコミンテルン極東局から、6500円(1974年の米ドルでは、3250ドルであり、117万円に相当する。
ただし、当時は芸者をあげて1晩騒いでも20円程度であった)を受け取り、下関で料亭で芸者をあげてドンチャン騒ぎをやり、警察に検挙されることもあった。

1921年11月、「極東勤労者大会」はモスクワで開かれた。
日本人は15人(共産系2人、アナ系4人、在外から9人といわれる)、徳田球一、高瀬清、吉田一、北村栄以智、和田軌一郎、小林進次郎、片山潜、鈴木茂三郎、野中誠之、野坂参三、櫛田民蔵、森戸辰男、大庭柯公(景秋)、真庭末吉、田口運蔵、が出席した。
中心人物は片山であったが、猪俣津南雄のポーランド人妻ベルに懸想してもめたり、あとで大庭柯公をソ連当局にスパイと密告して殺害させるなどの悪事をはたらいており、人望がなく、日本人出席者にはまとまりがなかった。

レーニンからみれば、日本には未熟な「革命家」しかいなかった。
レーニンは日本の労働者運動については知らなかったが、日本の産業発展と日本の軍事力向上については1900年代から着目していた。

ジノヴィエフが「マルクスはかって、イギリスにおける革命なしには、如何なるヨーロッパの革命もコップの中の嵐に過ぎないと言ったそうだ。
必要な修正を加えれば、日本の革命についても同じことが言える。
日本の革命なしには、極東における如何なる革命も比較的重要でない地方的な事件に過ぎないだろう。
日本ブルジョアジーは、極東の何百万もの人々を支配し抑圧しており、その手中に世界のその地域の運命を握っている。
日本ブルジョアジーの敗北と日本における革命の究極的勝利こそ、極東問題を真に解決し得る唯一のものである。
日本における革命の勝利の後でのみ、極東の革命は、コップの中の嵐ではなくなるのだ」と演説した。

レーニンは大会に出席したアナーキストの吉田一だけに声をかけた。
吉田はレーニンに声をかけられ感動したせいか、アナーキズムを棄て共産主義に転向することを誓った。
だが、シベリア鉄道における帰途、イルクーツクで徳田球一と喧嘩になり、アナーキズムに戻った。
吉田は学歴がなく字が読めなかった。
赤化防止団事件で投獄されたが、1966年まで長生きした。戦後は、徳川義親の保護をうけながら豆腐屋と自転車屋を開業したという。

共産党が結党されたのは、極東勤労者大会の6カ月後であったが、ソ連外交部はアナーキストの吉田一と連絡することを好んだ。
大連会議が決裂した1922年4月以降、日ソ間の政府間の外交連絡は絶たれたが、ソ連外交部は吉田との連絡を維持した。
一つには共産党国際部はコミンテルン支部(各国共産党)を担当し、政府外交部は他国政府と非共産党を担当する縄張りのためであった。

ヨッフェ Adolf Abramovic Ioffe (1883-1927)
クリミアのシンフェノルの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。
高校生で社会民主党に入党し、バクーやモスクワで活躍、逮捕状が出ると国外に亡命した。
1905年、血の日曜日事件でペテルブルグに戻り、活動した。
立場はメンシェビキで、トロツキーと近く、そのあと、ウィーンで『プラウダ』を共同編集した。
1912年、オデッサに戻ったところを逮捕され、シベリアに流刑となった。
1916年2月革命で釈放され、トロツキーとともにボルシェビキに合流し、中央委員候補のまま政治局員になった。
ブレストリウスク会議のソ連側団長になった。
これが外交官としての始まりである。
1918年11月、独ソ補備条約調印のためドイツに向かったが革命扇動の嫌疑で退去命令をうけた。
1920年のソ連・ポーランド戦争の講和条約の交渉団長、1922年のジェノア会議の交渉委員となった。
1923年、駐北京大使に任命され、上海で、孫=ヨッフェ宣言を出した。
その足で日本に行き国交回復交渉を行った。
このころ健康を害しており、熱海で1カ月湯治している。
1927年11月、トロツキーが中央委員から除外されると抗議のためクレムリンで自殺した。
終生、トロツキーの片腕としてならした革命家であり、尼港事件が冷めない日本でなぜ歓迎されたか、本人も意外であったろう。

吉田一はかねてから藤田勇と懇意だった。
藤田は元東京毎日新聞社長であり、また地方紙を買収するなどマスコミ界の風雲児であった。
同時に自社の労働組合を懐柔する必要からアナーキストから共産主義者まで交際を深めた。
それでも毎日新聞労組は懐柔に応じず、最後は会社そのものを乗っ取り、藤田を追い出した。
そのあと藤田は尾張徳川家の侯爵、徳川義親の資金係や各種の情報屋になった。

藤田の交際の幅は広く、大本教の出口王仁三郎、鈴木茂三郎、加藤勘十、松岡駒吉、浅沼稲次郎とつきあった。

ソ連はヨッフェを日本に派遣することを望むと吉田一に伝えた。
藤田は新聞社長のときのツテを利用して東京市長後藤新平の招待の形式をとって、1923年2月、ついに実現させた。

極東共和国

吉田は「ヨッフェを連れて来るために、藤田勇から頼まれて北京へ食うや食わずの旅をした。
そこで60万円もらい、また旅行をして帰国し、藤田に渡した。二百円くれ、残りは藤田が自分の贅沢のために使ってしまった」と戦時中に徳川に語った(鈴木徹三『戦後社会運動史資料論ー鈴木茂三郎』大原社会問題研究所 2001)。

藤田と徳川の手元にレーニンの大金が残った。
徳川義親は20万円を「大行社」の清水行之助(孫文のボディガードをやっていた)に拠出した。
当時とすれば破格の巨額であり、この金が大川経由、橋本欣五郎に渡った。
義親は、橋本がその金を使い、クーデターに向かうことは承知していた。
橋本が清水・大川からの金の出所を知らなかっただけである。

義親は社会主義者であって、貴族院の改革案として議員の「半数を華族から、半数を労働者から」と提案し、誰からも相手にされなかった経歴をもつ。
他方、武力行使による領土拡大を熱心に主張しており、とりわけ南方の植民地化に情熱を燃やしていた。

レーニンの金の最終的行方は、はっきりしない。
陸軍省は約20万円をヤミ金として保管しており、敗戦のとき義親に返却した。
義親は、その金をそのまま日本社会党の結党資金につかった。
三月事件・満州事変・十月事件と日本社会党結党は同根、すなわちレーニンの金で可能となったのである。

反自由主義運動

このころの民間政治運動の中心もまた社会主義であった。
大正以降の思想的風潮であって、明治の自由民権運動にたいするアンチテーゼであった。
「社会主義」とはドイツ思想であって、民権あるいは私権は社会(≒国家)の要請に屈するべきだという主張である。基礎はヘーゲルの国家を崇高な理想的存在とする思想であった。

この考え方は「言論の自由」などさまざまな自由のの否定に向かい、反資本家(金持ち)となり、日本の官僚の支配的思想となって現在に至っている。
また注目に値するのは簡単に儒教思想と結びつくことであろう。
『論語』は官僚層の指導書であり、国家の要請=官僚の要請であるとすれば、簡単に社会主義思想になる。

このため儒教基盤をもつとされる日本・朝鮮・大陸中国が一緒になって西洋諸国と対抗すべきという思想となり、大アジア主義とも結合する。
社会主義と大アジア主義を結合させたのは北一輝であった。
北は辛亥革命に参画し、『日本改造法案大綱』を著したが、基礎は議会制にもとづく社会主義(民主社会主義)革命であった。

北が大正8年(1919年)に帰国すると、大川周明と満川亀太郎(拓大教授)の迎えをうけ、「猶存社」を結成した。そののちヨッフェ来日問題をめぐり、大川と北は別れ、1923年、「猶存社」は解散した。

その秋、大川は直ちに安岡正篤と小尾晴敏の「社会教育研究所」に居を移し、牧野伸顕内府・関谷貞三郎宮内次官・荒木貞夫・秦真次・渡辺錠太郎を講師として招いた。
この組織は「大学寮」(宮内省の建物を借りた)と名前を変え、西田税(騎兵少尉)・藤井斉(海軍、血盟団事件関係者)・古賀清志が出入りした。

1925年に大川は、満川、安岡正篤らと「行地社」を結成した。

一方、北の影響を受けた清水行之助は「大行社」を興した。北はまた戻り、大川と再度、「行地社」として合作、また牧野内府収賄問題をめぐり分離。大川は残った。これで大川と北の間に決定的亀裂が生じた。

安岡は金鶏学院を興し、北と西田税は「士林荘」(代々木の自宅内)を興した。この士林荘は「天剣党」の母体であった。
社会主義団体は組織内において言論の自由を認めず、「党内独裁」に陥りやすい。
このため、親分ごとに組織ができ、離合集散を繰り返す。

大川周明(1886~1957)
酒田市出身。
山形県庄内中学、熊本五高、明治44年東大哲学科卒。
アジア植民地史の研究においては一流の人物である。
実践にも手を貸し、インド独立の「志士」ヘーラムバ・グプタやビハーリ・ボースと親交を結んだ。
5・15事件に関係し、禁固5年の判決を受けた。
それ以降歴史に登場するのは「東京裁判」であった。
大川は「日本軍国主義思想」の魁とされ、三月事件主犯とされた。
これ自体は冤罪であって、三月事件主犯は別のところにいた。
梅毒による精神疾患者として訴追を免れた。

大川は、北や西とは一線を画すようになった。
全国に大アジア運動を支援する学生運動の拠点をつくった。
さらに東亜経済調査局の理事長をつとめ、機関紙「日本」を発行した。
3月事件のあと1932年7月、子飼いの狩野敏に「神武会」をつくらせたが、自分は徐々に身を引いた。

大川は、社会主義・大アジア主義・国家主義という相矛盾する要素を巧みに結合させた。
この思想潮流は、平泉澄らの「皇国史観」につながっていった。

事件の当初計画

三月事件について「明らか」になったのは東京裁判における田中隆吉の証言からであった。

その証言をまとめれば以下となる、
二月中、大規模に無産三派連合の内閣糾弾のデモを行う。
三月労働法案上程の日に、大川の計画により民間側の左翼及び右翼1万人を動員し、議会にたいしデモを行い、政民両党本部、首相官邸を爆破する。
軍隊は非常呼集を行い議会を保護するとして包囲する。
情勢におうじて真崎中将は議会に入り各大臣に「国民は今や現内閣を信任せず。宇垣大将を首相とする内閣を信任す」と宣言する。
幣原首相代理以下の辞表を提出させる。
大命は宇垣一成大将に降下する如く、予め準備する(閑院宮殿下及び西園寺公への使者を決定する)。
このシナリオは田中清陸軍省調査班員の手記(供述)によった(森正蔵『風説二十年』鱒書房1947)。
これが証言から推測できる、事件当初の大川や橋本の計画である。

東京裁判では、日本側証人として呼ばれた軍人は、自己が属した組織に不利になるような証言はしなかった。
田中隆吉はキーナンに接待され女と家を宛がわれ「暴露証言」をなしたとされるが、本人は支那通でありながら宇垣派に属し、昭和天皇に忠実である反面、統制派を排撃することによって、陸軍全体の罪科軽減を狙ったのである。
ただし、宇垣に目をかけられたこともなく、統制派についてもよく知らず「ドイツ派」(支那通の天敵であった)と取り違え、米軍の歓心を買いながら見当違いの批判を加えただけであった。

このシナリオはロシア十月革命と酷似している。
大川は無産三派のデモとともに国会を占拠するといった「ボルシェビキ」型革命しか思い浮かばなかったのである。
この点で橋本も同じであった。

浜口雄幸へのテロ

1930年(昭和5年)11月14日、浜口雄幸首相は、東京駅のプラットホームから特急「燕」(ツバメ)号に乗車するところを、ピストルで撃たれた。
弾丸は下腹部に命中し、浜口は東大病院に運び込まれた。
手術後、「男子の本懐だ」と浜口は洩らした。
犯人は佐郷屋留雄であった。
佐郷屋は、「浜口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」
と供述した。
背後の右翼団体は隠しての犯行であった。
もっとも、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかった。
死刑判決を受けたが、1940年に出所、岩田愛之助の娘と結婚した。
1954年、血盟団の井上日召と共に護国団を結成、第二代団長となる。
1959年、児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となった。

佐郷屋は終生、ピストルの入手先や背後関係について喋らなかった。
この点では珍しいテロリストである。

浜口が重体と報じられると、内閣にすぐ動揺が走った。
西園寺をとりまく革新貴族、原田熊雄、木戸幸一らは、「中間内閣」論を唱えた。
政党政治を否定し、軍部と政党の両方を跨ぐ内閣を樹立せよというのであった。

その場合、想定された首相は陸相の宇垣一成であった。
宇垣は上海事変後朝鮮人によるテロで倒れた白川陸相の短い期間を挟んで、すでに四年間陸相を務めていた。
閣僚の中でも最古参であった。

宇垣は浜口の後継首相に自分が指名されることを密かに期待した。

11月24日、西園寺は原田に、「午前中、竹越与三郎が来て、ヘンなことを言ってきた。宇垣大将を民政党総裁にする工作を富田(幸次郎)民政党幹事長らと一緒に進めるからご承知おきください、といっていたのだが、そのうちに、民政・政友両党協力の中間内閣をつくって宇垣大将を擁立する運動も考えていると口走った」

「宇垣大将が民政党総裁になって、敢然とファッショの風潮に立ち向かって、浜口首相の弔い合戦をやるというならよくわかります。ところが竹越や富田が画策している中間内閣の構想に色気を示している。しかし浜口首相が再起できないことになっても、決して政権は民政党以外には渡せませんよ」

「原敬が殺されたときには同じ政友会の高橋(是清)に継がせたし、加藤(高明)が急死したときも同じ憲政党の若槻礼次郎に継がせた。首相が殺されたらといって、すぐ反対党に政権を渡したら、暗殺は尽きなくなる」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』文藝春秋)
と語った。
もっともな理屈であろう。
反対するには明治憲法下の議会政治を滅ぼし、代わりに独裁政治を実現させるという強固な意志と他人を納得させるイデオロギーが必要である。

原田は直ちに永田鉄山経由で宇垣に伝えたに違いない。
このときすでに、永田は原田と強いパイプをもっていた。

昭和6年(1931年)1月に入ると、陸軍省には、宇垣陸相が田中義一のように政党入りするのではないかという噂が流れた。
西園寺の話が永田経由高級軍人に流れていたのであろう。
田中義一的行動様式(金を使って政党の党首になる)は陸軍高級軍人にとっては生理的に嫌なのである。

2月、幣原喜重郎が、

「この条約(ロンドン条約)は御批准になっています。御批准になっていることをもって、国防を危うくするものではないということは明らかです」

 と議会で演説すると政友会は「天皇の政治利用」だとして反発した。
国民は張作霖爆殺事件の「軍人関与」の噂や田中義一の首相辞職、さらに中国における軍閥戦争の悪化、テロの増大に外交努力の増大を求めていたが、幣原と外務省は無能ぶりを暴露するばかりであった。

橋本欣五郎は大川周明に民間側の決起倒閣を依頼した。
大川は清水行之助と狩野敏に右翼工作を松延繁次に無産三派工作に当たらせた。
社会民衆党の赤松克麿が熱心に応じた。
さらに橋本は千葉砲兵歩兵学校に交渉し演習用の擬装弾を程ヶ谷曹達(日本火薬)に発注、そのうち300発を受け取り、参謀本部に持ち込み、清水行之助配下に引き渡した。

このうち「行知社」、清水行之助の「大行社」、水戸「愛郷塾」といった右翼団体は、武器を準備し、デモに動いたのは、「社会民衆党」「全国大衆党」「労農党」の無産三派であった。
彫刻家の朝倉文夫は会合のために自宅を提供した。

桜会は何も機能せず、三月事件の中心となったのは小磯国昭軍務局長と永田鉄山軍事課長及び永田の部下という「職制」であり、結果として橋本も桜会(実態は親睦会にすぎなかった)も、大川を通じた民間工作しかできなかった。

小磯と永田は初めから大川・橋欣の計画を疑っていた。
陸軍が議会を包囲したところで、それ以外の陸軍部隊は動かない。
ただし宇垣陸相の政界入りを防ぎ、そうではない宇垣首相による「陸軍内閣」が実現できないかと模索した。

宇垣・小磯の事件との係わり

大川周明は2月21日(原田熊雄『西園寺公と政局』昭和6年11月5日の条によれば2月11日、『宇垣一成日記』みすゞ書房、によると21日)、宇垣と宇垣邸で面会した。大川は「昭和維新の建策書」を出した。

ここで大川は、政党内閣ではもう駄目だから中間内閣(陸軍と政党の協力内閣)しかなく、宇垣が首班になったらどうかと話した(『宇垣一成日記』みすゞ書房)。
宇垣はこの中間内閣の話をすでに聞いていて、挫折したことも知っていたので、「建策書」はそのままにしておいた。

一方、軍務局長の小磯国昭は「豹変居士」であって、サラリーマンであった。
社会主義・大アジア主義・国家主義に興味はなかった。気になったのは自分の人事であった。
小磯は「官吏」の地位に固執し、政治家に人事を左右されるのは嫌だった。

2月26日、小磯は別のルートですでに受け取っていた「大川建策書」を陸相官邸(国会議事堂前にあった和風建築、のち宇垣内閣流産事件や終戦クーデターの舞台にもなった)に行き宇垣に報告した。
直後、応接室に陸軍幹部(杉山・二宮・小磯・建川)が集まり協議した。夜、大川は小磯を自宅に訪ねた。
小磯は朝からの件を報せた。

大川は3月3日に小磯自宅を訪問し、新たな「建白書」を提出した。
小磯は事情聴取した。翌日、その聴取書を永田鉄山に渡した。
小磯は戦後巣鴨拘置所でこの日の大川聴取書の取り扱いについて次のように書いた。(小磯国昭『葛山鴻爪』)


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前述大川君から受領した書類と、質間して得たところとを綜合して、其の夜、藁半紙約四十頁程の鉛筆書きで、大川博士建策聴取書なるものを作製の上、精読して見たが、意見や計画が甚だ不穏且つ幼稚であることは姑く別問題とするも、各事項の企画目的や相互の関連尚不明瞭な所が少くなく自然首尾一貫性が足らず、仮令、筆者自身の案でないながらも此の儘陸相に提出するのは、子供の使に堕するやうな憾が深いので、翌日、陸軍省に登庁の後、永田軍事課長を呼んで、大川問題に関する経緯を語ったところ、永田課長は、「そのことは薄々耳にしてゐましたが、私はそんな非合法的処置には元々反対の意見を持っているのです」といふから「大川の考の適当でないことに就いては私も全然同意見だが、其の事の可否は別問題として、此の鉛筆で記した聴取書は大川から陸相に対し建策しようとするものなのだ。一応聴き取りの書いては見たが、考が非合法で児戯に類してゐるばかりではなく、各事項相互に関連性も少く又首尾一貫性が欠げてゐるので、取次がねぱならぬ私が子供の使ででもあるやうな感じがするのだ。課長、一度読んで見て私の感じが妥当かどうか意見を聴かして貰ひたい」というたら、「困りました」
とは言ったが自室に持って行った。(以上は小磯国昭『葛山鴻爪』小磯国昭自叙伝刊行会)

この話は疑わしい。
『永田メモ』は極めて複雑なクーデター計画であって、事前に各方面に了解をとらねば成立しないものであるからだ。永田一人の「思いつき」でできるものではなかった。
小磯は戦後になっても自分が『永田メモ』に沿って、宮廷内で暴力行為に及ぶという計画に、いったんは賛同した事実をなんとしても隠蔽したかったのである。
『葛山鴻爪』の記述は潤色である。



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3月5日、永田は自らのシナリオを書き上げ『永田メモ』として小磯に提出した。


『永田メモ』

未遂に終わったクーデターの首謀者は計画を作成するか作成を命令した者である。
三月事件の計画書は不思議な過程を経て現在に伝わっている。それは『永田メモ』と呼ばれる。

『永田メモ』は、昭和10年7月18日の極秘陸軍軍事参議官会議において突然、荒木貞夫は、三月事件の計画書であるとして提出した。そのあと荒木の手許に残ったと推定されるが、いつか小畑敏四郎に移った。
小畑の死後、未亡人は菅原裕弁護士にその処理を依頼した。
以下は菅原裕著『相沢中佐事件の真相』経済往来社による、その一部の抜粋である。

  陸相拝謁要領
一、上奏ノ要務ヲ設ク
例ヘバ人事局ヲシテ将官人事ノ内奏ヲ必要トスル一案ヲ作製セシム
ニ、官房又ハ補任課ヲシテ侍従武官(侍従二非ス)ヲ介シ拝謁ヲ願出ツ
侍従ヲ介スルヲ本則トスルカ如キモ帷握上奏ノ場合ハ便宜上侍従武官ニテ可ナリ(町尻又ハ阿南ヲ用フルヲ要ス)
三、万一侍従等カ宮内大臣其他ト策応シ拝謁日時ノ遷延ヲ企ツルカ如キ場合ニハ侍従武官長ヲシテ陸相ニ代リ之ヲ弾圧ス
宮内諸官ハ上奏ノ権能アル者ノ参内上奏ヲ阻止スルヲ得ス前項遷延ヲ図ルコトハ考慮シ置クヲ要ス
四、―略―

クーデターの最重要ポイントは権力の獲得方法である。
永田はその手段を昭和天皇の廷臣を暴力で屈服させ陸相が拝謁して大命降下を得ると想定したのである。
橋本・大川のボルシェビキ革命型「議会で宣言させ、西園寺に頼む」よりはるかにこの時代、現実的であろう。

加えて、陸相が帷幄上奏すると書いているが、この場合、参謀総長ではないから施行上奏というべきであった。
宇垣陸相でなく小磯国昭が『永田メモ』作成を命じたことの傍証になる。
また阿南(惟幾)と町尻(量基)の名前があがっており、永田は両名の了解をとっていたのであろう。

シナリオをつくったのは永田鉄山であり、そのあまりの実現性の強さから、小磯や宇垣は賛意を示しめしながら、成功するまでは、担がれるまではと身を隠した。
日本の上級管理職がよくとる態度である。

昭和天皇が宇垣について張鼓峰事件に関連して「はっきり否定しないので、首相に適さない」と評したのもこういったことが原因であろう。
これは宮廷クーデター案であり、十月事件、2・26事件、終戦クーデターにも同様の権力奪取過程があった。
戦後の未遂にもならない「クーデターごっこ」にはこの過程が欠落していることにも注意すべきだろう。

宇垣一成クーデター中止の決心

昭和6年3月4日、無産三派のデモがあった。
芝公園に2千~3千、上野公園に1千5百集まったという。
宇垣は「泰山鳴動して鼠一匹」と呟いた(『宇垣一成日記』朝日新聞社、付記中保与作との面談)。

3月5日、西園寺公望からの指示で原田熊雄は宇垣を新橋の料亭「山口」に招いた。
原田は前夜、井上三郎大佐の紹介で参謀本部の課長と歓談していた。
宇垣は警戒して「早く陸相を退いて病気療養に専念したい」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』文藝春秋)と繰り返した。

3月8日、宇垣は西原亀三邸に出向き、森恪と会談した。
政友会入りして政界入りする手についての腹の探りあいであった。

3月10日、無産三派のデモは再度決行され、議会周辺に向ったが、警察もほとんど取り締まりに出ない小規模のものであった。
『永田メモ』の前提は、首都治安維持のため陸軍部隊が出動し、緊急事態の中で陸相が参内することであったから、出動要因にもならないショボクレデモでは、何かやるに値しない。

宇垣は「3月事件が大事だとすればそれを止めさしたのは私だと言わなければならぬ」「軍隊を出して貰いたいというのに対して、蹴ってしまったのだから」(『宇垣一成日記』朝日新聞社、付記中保与作との面談)と語っている。大川シナリオでは軍隊による議会包囲が中心であった。それより以前で「蹴っている」ことは『永田メモ』で動いていることを示し、直接には参内などして、自分が大泥を被るのが嫌だったのであろう。

3月11日、浜口雄幸は衆院本会議場に登院した。
新聞も世論も歓迎し、昭和天皇も「早く治って良かった」とことの他にお喜びと伝えられた。

同じ日、永田は芝の飛行会館で土肥原賢二、岡村寧次とともに、山岡重厚教育総監部先任課長や小畑敏四郎(陸軍歩兵学校研究部主事、その前、参謀本部作戦課長)らを集め「予算の不足、満州における治安悪化を理由として、軍部内閣をつくりたい、宇垣陸相は賛成している」と熱弁をふるった。しかし山岡と小畑が反対し、「それではやめよう」といった
。永田のあだ名は「合理適正居士」であった。
おそらく明治維新以降初めて、天皇を監禁ないし脅迫することにより権力委譲が可能になるとのアイデアを創出した人物である。永田は最後まで諦め切れなかった。

宇垣は小磯を呼びつけて、大川博士建策聴取書をつき返し「こんな馬鹿げた考えが採用されるものか、大川が6日によこした手紙をみると、まだなにか続けているようだが、直ちに従来の計画を放棄するように大川に伝えろ」((小磯国昭『葛山鴻爪』) と命令したという。

『葛山鴻爪』(小磯が巣鴨収監中に執筆)は潤色が多い。大川博士建策聴取書とは2月26日につくられた大川シナリオであり、3月4日の無産三派ショボクレデモで破産していた。
小磯は『永田メモ』=宮廷クーデターの昭和天皇側近に暴力を使い、脅迫するというシナリオについて巣鴨に収監された最中でも公に賛成したとはいえなかったのである。宇垣はこのとき『永田メモ』中止を命じたのであろう。

宇垣は昭和天皇が浜口の登院を喜んでは、たとえ暴力を行使しても屈服しない可能性が強いと睨んだのだ。
そのうえ、『永田メモ』では、陸相が昭和天皇に面会するまで、陸軍の太宗は動かないことになっていた。
失敗したときのリスクは宇垣一人で背負わねばならなかった。

このときすでに永田は西園寺工作を開始しており、原田熊雄や木戸幸一らとの接触を開始していた。
木戸は戦後になり、宇垣について

「あの人の動きというのは、どうもわからん。
三月事件にしてもねえ、成功すれば乗ってやろう、担がれてやろうという野心が十分に見えるんだ。
その点、先生は野心家だ。でいけなければ、俺は知らないと逃げちゃうという、非常に陰険なところがある人だよ。なかなかあの当時の陸軍の将官としては立派な人だったから、西園寺さんも宇垣は大事にしておけといわれたんだよ。それで原田と二人で、住友の会館あたりに呼んで食事も一緒にしたこともあるしね、いろいろやっているんだ。こっちは。ところが、どうも、ヒョコヒョコ、ヒョコヒョコ出回りゃがって仕様がないんだ、ハハハ」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上)

木戸は永田ら統制派に甘かった。木戸にしても、『永田メモ』のような宮廷で暴力をふるうという点にまでは考えが及ばなかった。「革新貴族」といっても経験が浅く、維新の修羅場をくぐったわけではない。
自由主義・議会主義の西園寺に反感をもち、軍人界の思想がそこまでとは思わなかった。
西園寺は「陸軍にアカがいる」と断定したことに面白くなかったのかもしれない。
唯物論、物質主義は誰にたいしてもテロを意に介さないのである。

事件後
浜口内閣は4月13日に総辞職した。
西園寺は議会政治を維持すべく、後継首相に同じ民政党の若槻礼次郎を推輓した。
宇垣陸相も退陣し、6月17日付け予備役に編入され、朝鮮総督に任命された。
南次郎が後任についた。

三月事件終了後、大川周明はレーニンの金の一部をもって「満州問題研究室」をつくり、そこで生活に困っていた張作霖爆殺事件の犯人、河本大作を雇いいれた。
大川は河本大作を満州に派遣し、関東軍との連絡にあたらせた。

橋本欣五郎は三月事件の再興を考えた。
橋本は次には、組織的な柵【しがらみ】から思い切った行動がとれない陸大卒のエリート将校ではなく、無天の隊付将校に狙いをつけ決起させることを考えた。

『手記』に「三月事件当時の桜会の会員は約百名内外にして、主として陸大出身、在京者大部を占めたり。重大決行時に至るや、殆ど決意薄く、保身主義者多く、一種の研究機関たるの態度より出でず、予の行動を以て意外に感ずる模様なり。
ここに於いて予は将来、国家改造の重大事を決行するに殆ど頼むに足らずと判断す。
そもそも陸大出身者は時勢に迎合する出世病大部を占めるが当時の通弊なりき」と書いた。

橋本のクーデター計画は杜撰であるにもかかわらず、陸軍将校にある種の感銘を与えたのは、こういった出世とは縁を切った、一種の潔さが原因であろう。このように「桜会」とは橋本すら「頼むに足る」組織とみていなかった。
松本清張の「桜会の野望」という表現こそ「虚妄」である。

三月事件が失敗に終わると、中核となって動く橋本の同志はロシア班の部下、田中・小原・天野の3大尉と支那班の長勇大尉しかいなかった。
橋本の桜会はそれほどの実態はなかったが、省部の首脳部は部下掌握のため陰謀情報をかぎ回る状態になった。
全員が疑心暗鬼になった。

6月に入ると、満州をめぐって国内世論が沸騰しだした。
いくつかの要因が複合していた。
たんなる放漫経営のせいであるが、1930年(昭和5年)の満鉄決算が6月発表され、赤字に転落していた。
さらに学良軍が満鉄付属地に無断で入るなど緊張を増やしていた。
また日本人の子供が暴行をうける事件などが続発し、満鉄の大量解雇もあって、居留民が帰国するようになっていた。
さらに中村大尉事件、7月2日に万宝山事件が発生し、国内は浮き足立った。

学良軍を急襲するアイデアを関東軍が練り、奉天特務機関の花谷正を説明のため、1931年6月末、東京に派遣した。
このときの案では、「満州浪人」「満ゴロ」が奉天日本総領事館を襲撃し、館員を殺戮しまくる計画になっていた。

支那課長重藤千秋が応接し「陸軍中央部においては、目下の処、かくのごとき案を採用する意図なし」といい「この案を陸軍に示すことなく予は同志して、徹底的に遂行を援助する」と伝えた。
中央官庁の課長の返事としては恐ろしい。

起爆剤として満州ゴロを金で雇う必要がある。このための費用として花谷は5万円を要求した。

7月31日、今度は板垣征四郎大佐がきて、重藤・橋本に面会し、花谷の5万円は「どうなっているか」と再度、要求した。
花谷がきて以来、東京の雰囲気は一変していた。
こと満州に関しては、建川美次ら支那通は、「事変案」を好意的にみるようになっていた。
板垣は「事変案」の全貌を明らかにし、決行日時を9月28日として、重藤と橋本の協力を仰いだ。

8月1日、陸軍省は定期人事異動を発表した。関東軍の菱刈隆軍司令官に代わり、本庄繁中将が新任された。
参謀本部第1部長(作戦部長)には建川美次、作戦課長に今村均がついた。

小磯国昭本人にも将来陸相になりたい「野望」があった。
何か起きることを期待した。
三月事件の計画をつくった永田鉄山軍事課長は満州と国内クーデター同時決行を考えた。

在日達の素顔

2012.03.08(11:42)


本来、戦争当事国の国民ではあるが、敗戦国民でも戦勝国民でもない第三のカテゴリーの国民という意味であった「三国人」にマイナスイメージが付着したのは、彼らが下記のような事件を続発させたことに原因があります。
これらの事件は、どう考えても内海教授や梶村教授が言うような「精力的な活動」「解放人民として生きていくために不可避なこと」というレベルをはるかに超えており、外国人としての立場を弁えない横暴な行為であると言わざるを得ません。
彼らは事あるごとに「歴史認識の共有」なるものを主張しますが、こういう歴史的事実も共有すべきでしょう。


・大阿仁村事件(1945年10月22日)
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。
午後1時になると約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。

・生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。
その後1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。
岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。
急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。
また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。

・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。
彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。
朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
【このような事例は全国各地で続発しており、蔡焜燦氏や北斗星氏の証言が他のサイトで紹介されています。】

・富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
1945年末に起きた強盗事件の容疑者として朝鮮人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署に留置されていた。
1月3日になって朝鮮人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、朝鮮人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴徒化して、事実上警察署が占拠された。
そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。

・長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)
1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取締で、朝鮮人26名・中国人6名・日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。
朝鮮人・中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100名とその他中国人など総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた(うち1名は死亡)。
捜査の結果、60名の朝鮮人と7名の中国人を検挙した。

・富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
1946年8月5日、富山県警察部は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。
そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。
ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった「自治隊出張所(引用者注:朝連の自治隊の「交番」のこと)」を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。

・坂町事件(1946年9月22日)
羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、中国人15名・朝鮮人約50名が警察官に襲いかかり、暴行を加えた。
警察官は傷を負いながらも朝鮮人2名を逮捕した。
同日午後、坂町・金屋両駐在所から「ヤミ米を運搬している」という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。
そのとき、約15名の朝鮮人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。
さらに駐在所に侵入して器物損壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援により、これを鎮圧し12名を検挙した。

・新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)
1946年9月26日に、朝鮮人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。
読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予した。
29日に朝鮮人団体幹部たちは再度新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得のいく回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員検挙した。

・首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
宮城前広場(現在の皇居前広場)において、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。
このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。
このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵隊に引き渡された。
彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。

・尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
1947年10月20日午後3時ごろ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのを奇貨として派出所内の器物を破壊し、『尾花沢派出所』の表札を外して一旦逃走した。
その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。
そのとき、さっきの朝鮮人7名と他の朝鮮人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重傷を負わせた。
警察は進駐軍憲兵の協力も得て、29名を検挙した。

・阪神教育事件(1948年4月23日~25日)
1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮人学校に学校教育法を適用するように通達を出した。
大阪府ではこれを受けて、朝連の幹部や朝鮮人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮人側それに応じる気配を見せなかったので、3月15日に閉鎖勧告を行った。
しかし、朝鮮人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢を上げた。
朝鮮人代表15名は大阪府庁内で副知事・学務課長と交渉していたが、主張が容れられなかったので、朝連系の青年行動隊等数百名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。
大阪市警察局と国家地方警察大阪府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除した。
神戸では、翌24日に朝鮮人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。
会議には兵庫県知事および副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正など14名が参加していた。
そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。
また、市警察局長や検事正に対しては、検挙者の釈放と今回の行為を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。
しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に「非常事態宣言」を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。

・評定河原事件(1948年10月11日~12日)
1948年10月11日と12日の両日、宮城県仙台市の評定河原グラウンドにおいて、朝連と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の主催で、北朝鮮政府樹立祝賀会と運動会が開催されたが、このときGHQにより禁止されていた北朝鮮国旗を掲揚したため、仙台市警察と進駐軍憲兵がこれを阻止し、進駐軍憲兵に抵抗した朝鮮人1名が腹を撃たれて負傷、合計6名が検挙された。

・宇部事件(1948年12月9日)
宇部市民会館において朝連系約200名が参集し、生活擁護人民大会を開催中、手配中の朝連県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕したが、大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなり、警察側の発砲によって鎮圧された。

・益田事件(1949年1月25日)
島根県美濃郡益田町(現在の島根県益田市)の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。
翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。

・枝川事件(1949年4月6~13日)
東京都江東区枝川町の朝鮮人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し、連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた朝鮮人約50人が刑事を取り囲み、暴行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。
その後の交渉で、警察は暴行者の引渡しを要求したが、朝鮮人側は刑事の処分と暴行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川町を封鎖し、13日に一斉検挙を行い被疑者9名を検挙した。

・高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日)
新潟県中頚城郡新井町(現在の新潟県新井市)と同郡中郷町の朝鮮人集落では大掛かりな酒の密造をを行っており、警察などの関係当局は1949年4月7日早朝に一斉取締りを断行し、証拠物件を押収した。
その後、この摘発に抗議する朝鮮人約200名は新潟県高田市(現在の新潟県上越市)の高田市警察署に押しかけ、警察署庁舎に投石して窓ガラスを割ったので、4名を検挙した。
翌8日には高田税務署に押しかけ、署内に侵入しようとしたり投石をしたため、1名を不退去罪で検挙した。
11日になると、朝鮮人約500名は高田市内をデモ行進した。
警察はこれまでの穏健路線を転換し、首謀者12名を検挙した。

・本郷村事件(1949年6月2日~11日)
福井県大飯郡本郷村(現在の福井県大飯郡大飯町)の派出所勤務の巡査が戸口調査をするために、朝鮮人集落に赴いたところ、多数の朝鮮人が「我々を差別扱いする」と言って戸口調査を妨害し、同巡査に暴行を加えた。
その後連日、派出所や警察署に約200名が押しかけ抗議した。

・下関事件(1949年8月20日)
1949年8月20日早朝、山口県下関市内の民団側朝鮮人家屋を朝連側朝鮮人約200人が竹槍・棍棒を所持して襲撃し、民団員十数人に傷害を与え、さらに家屋19戸を次々に破壊して金品を略奪した。
このため市内は一時大混乱になった。
下関市警と国警山口県本部は山口県下の警察官約1000名を動員して、朝鮮人約200名を騒擾罪で検挙した。

・台東会館事件(1950年3月20日)
1949年9月8日、法務府は朝連に対し団体等規正令を適用して解散命令を出した。
東京都は当法令に基づき朝連の台東会館を一時接収したが、「台東会館防衛闘争委員会」を名乗る旧朝連員によって奪還され、さらに約400名がバリケードを構築して、小石や鉄片や唐辛子を投げつけるなどの実力抗争に出たために警察隊と乱闘になり、旧朝連員120名が検挙された。

・連島町事件(1950年8月15日)
岡山県浅口郡連島町(現在の岡山県倉敷市)で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり、集会を強行したので、制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した。

・第二神戸事件(1950年11月20~27日)
11月20日、約300名の朝鮮人が生活権擁護陳情のため、神戸市の長田区役所に押しかけ、区長と団体交渉に入ったが、排除にあたった警官隊と揉み合いになり、兵庫県朝鮮青年団体協議会議長を逮捕した。
24日には、長田警察署と長田区役所にデモ行進し、その際の衝突で26名の検挙者がでた。
27日になると、旧朝連系約900名は、棍棒・白鉢巻の姿で西神戸朝鮮学校に集合して不穏な形勢を示し、デモ行進に移ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突し、デモ隊の一部は長田区役所、長田税務署に殺到して窓ガラス等を破壊した。
神戸市警察局は、占領目的阻害行為処罰令違反と騒擾罪容疑で188名を検挙した。
【「第一神戸事件」は「阪神教育事件」を指す】

・四日市事件(1951年1月23日)
旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った。
そのため、執行係官7名が全治2~3週間の重軽傷を負った。警察が出動して公務執行妨害容疑で15名を検挙した。

・王子事件(1951年3月7日)
1951年2月28日、警視庁は占領目的阻害行為処罰令違反容疑として東京都北区上十条にある東京都立朝鮮人中高等学校(現在の東京朝鮮中高級学校)を捜索し、多数の印刷物を押収した。
3月7日、これに抗議する約1700名の朝鮮人(うち朝鮮学校生徒1100名)が同校で「真相発表大会」を開催し気勢をあげ、付近の民家で現場写真を撮影していた捜査員に対して殴る蹴るの暴行を加えたため、他の警察官が助けようとしたが、投石その他で拳銃2丁を奪うなど実力で抵抗した。このとき8名が検挙された。

・神奈川事件(1951年6月13日)
浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。
これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。
運動会終了後、約500名の朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで気勢をあげた。
そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した。

・下里村役場事件(1951年10月22日)
兵庫県加西郡下里村(現在の兵庫県加西市)において、朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために下里村役場に押しかけ、村役場職員を吊るし上げ、椅子を振り上げる等の暴挙に出たので、暴行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙した。

・福岡事件(1951年11月21日)
「強制追放反対」を叫ぶ朝鮮人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊と乱闘となり、16名が検挙された。
その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。
警官隊が解散を命じたが応じなかったので、再度乱闘となり5名を検挙した。

・東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日)
1951年11月10日、泥酔中の朝鮮人を警察が保護したが、容態が急変して同日夜に死亡した。
乗っていた自転車が転倒して肝臓が破裂したことが原因であった。
ところが、朝鮮人側は警察官の暴行により死亡したとデマを流し、約30名の朝鮮人が東成警察署へ抗議に訪れ、署員の制止を聞かずに署内に乱入しようとしたので、これを阻止すると、催涙ガス瓶を投げ入れたり、投石してガラス窓を破壊したので、被疑者3名を検挙した。

・半田・一宮事件(1951年12月3日~11日)
1951年12月3日、愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮人が押しかけ、署長以下数名を監禁した。
一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮人が捜査の妨害をした。
そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。
12月11日、これに抗議する朝鮮人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入して警備の警察官ともみ合いになった。
また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊した。
他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。

・軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日)
上記の東成警察署で死亡した朝鮮人の追悼式に参加した朝鮮人約110名は、3班に分かれて、大阪市内四ヶ所の親子爆弾製造工場(民団系)を襲撃し、製品や窓ガラスを破壊したり、従業員に暴行を加えたりした。

・日野事件(1951年12月18日)
朝鮮人約50名が、自転車隊を編成し、白襷をかけ、「強制送還反対」のプラカードを掲げ、メガホンやスピーカーを所持し、強制送還反対を叫びつつ滋賀県内を無届デモ行進をした。
警察は公安条例違反として再三中止を警告したが応じなかったので、滋賀県蒲生郡日野町において実力行使に出たが、石や薪などを持って抵抗したり、拳銃を奪い取るなどして反抗した。
これにより、警察側に25名の重軽傷者を出したので、拳銃を発砲してこれを鎮圧した。
35名が検挙された。

・木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日)
1952年2月21日に国家地方警察青森県本部所属の木造地区警察署で傷害容疑の朝鮮人2名を逮捕したが、朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。
23日になると、約70名が署内に侵入しようし、警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。

・姫路事件(1952年2月28日)
兵庫県姫路市において、民団広畑分団長ほか3名の民団員宅に旧朝連系約20名が覆面して押しかけ、器物を破壊して逃走した。
また同時刻に姫路市内の交番4ヶ所に5~30名の朝鮮人が押しかけて、警察官を軟禁し、多数の威力を示して脅迫した事件である。
捜査の結果21名を検挙し、竹槍等の凶器を押収した。

・八坂神社事件(1952年3月1日)
三・一事件記念の名目で集まった約70名の朝鮮人デモ隊が、大阪市東成区の八坂神社境内に突入しようとしたため、大阪警視庁機動隊と大乱闘となり、朝鮮人側に十数名の負傷者を出して解散した。
一時間後、いったん解散させられたデモ隊40名は近くの朝鮮人集落の広場でジグザクデモ行進を始めたので、東成署員約50名が現場に急行、解散させた。
この事件で6名が検挙された。

・宇治事件(1952年3月13日)
1952年3月13日午前1時頃、宇治市警小倉派出所・伊勢田臨時派出所及び警察官宅3ヶ所に、それぞれ5名の朝鮮人が押し入り、表戸などの器物を破壊し、「殺すぞ」の暴言を吐いて逃走した。
そのため、宇治市警は国警京都府本部の応援を得て426名の特別検挙隊を編成し、宇治市ウトロ地区(朝鮮人集落)を捜索、小競り合いなどがあったが、6名を検挙した。また伏見税務署も密造酒の捜索を行い、密造酒2升を押収した。

・多奈川町事件(1952年3月26日~30日)
大阪府泉南郡多奈川町(現在の大阪府泉南郡岬町)において、密造酒取締の結果、9名を検挙し証拠物件をトラック10台に満載して引き上げようとしたところ、これを奪還するため約500名の朝鮮人が押しかけ、投石その他によりトラックの進行を阻止して、9台分の押収物件を破棄し、被疑者を逃走させて運転手に暴行を加えた。
その後の捜査の結果27名を検挙した。

・田川事件(1952年4月19日)
1952年4月13日、福岡県の七曲峠で花見をするために集まっていた日本人グループと朝鮮人グループが喧嘩になり、双方に死傷者が出た。
国家地方警察田川地区警察署は両グループを検挙した。
ところが19日になって、朝鮮人の集団が田川地区警察署に押しかけ、犯人の即時釈放を要求した。
警察は3名のアリバイを認め釈放したが、朝鮮人たちは引き続き全員の釈放を要求し続けた。
午後11時になり、警察が排除に乗り出したので、彼らはガラス戸に向かって投石をし始め、ガラス戸27枚が破損、警察官7名が負傷した。
21日に再度、田川地区警察署に押しかけて署長に面会を求め、署内に乱入しようとしたため、催涙弾を使用して鎮圧した。

・岡山事件(1952年4月24日~5月30日)
阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮人約200名が岡山市公安条例に違反する無届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン(催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。
5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞社の写真部員に投石したりした。
11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害で8名を検挙した。
その後、朝鮮人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。

・血のメーデー事件(1952年5月1日)
第32回メーデー大会に参加したデモ隊の一部は、日比谷公園前において「人民広場(引用者注:皇居前広場のこと)に押しかけろ」を合図に同公園を通過し、警官隊の警戒線を突破して皇居前広場に殺到したため、警官隊と乱闘になった。
乱闘中に、3000~5000名の旧朝連系(在日朝鮮統一民主戦線・祖国防衛隊)を先頭とする数万のデモ隊がこれに合流したため、双方の乱闘が一段と激化し皇居前は一大修羅場と化した。
この事件で2名が死亡し、日本人1078名、朝鮮人131名が検挙された。

・上郡事件(1952年5月8日)
4月10日に左翼系朝鮮人5名は、兵庫県赤穂郡船坂村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町)で、別の朝鮮人3名に対して日本の学校に入学させていたことを理由に「スパイ」と難癖を付け、巻き割りで殴打した。
その事件の容疑で5月8日に国警赤穂地区警察署は、朝鮮人8名を検挙した。
その後、容疑者は神戸地検姫路支所に護送されたが、その間朝鮮人の一団が赤穂地区警察署に押しかけ、容疑者の奪還を図ろうと南へ約50m離れた小谷薬局前で警察と乱闘になったが、容疑者の身柄は無事護送された。

・大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
1952年5月12日、韓国に強制送還された朝鮮人のうち、125名が手続不備で逆送還されて、大村収容所に再収容された。これに対し、民戦から数回にわたって抗議した後、5月25日になって50名が抗議に押しかけ、代表が当局と会談中、外部の者は盛んに収容者に対し、逃走をけしかけた。そこで約100名は混乱に乗じて逃走を企図し、12名が逮捕されてようやくおさまった。
その後、11月9日~12日にわたって、また民戦活動家数十名が押しかけ代表が当局と交渉中、654名の収容者が一斉に脱出を企図したので、催涙弾と消防車でこれを阻止し、首謀者12名を検挙した。

・広島地裁事件(1952年5月13日)
駐在所と民家に放火した容疑で検挙した朝鮮人4名の裁判が広島地方裁判所で開かれたが、傍聴していた朝鮮人約200名が柵を乗り越えて法廷内を占拠、被告4名を奪還して逃走させた。

・高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)
5月26日早朝、名古屋市瑞穂区にある民団愛知県本部顧問宅へ旧朝連系の朝鮮人数十人が乱入した。
そのため、顧問は瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。
警察官が顧問を助けようとしたところ、追跡してきた一団は火炎瓶や石を投げつけて派出所を焼き討ちにした。そして、裏口から逃げようとした顧問を追いかけて暴行を加え、全治10日間のけがを負わせた。
他にも同時多発ゲリラとして、米軍基地・民団愛知県本部・中村県税事務所に火炎瓶を投げ込んだり、名古屋簡易裁判所判事宅に投石を行ったりした。最終的に朝鮮人31名が検挙された。

・奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)
奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の朝鮮人が押しかけ、戸を開けた巡査部長の父に暴行を加え意識不明の重体にし、窓ガラスや障子を破壊して逃走した。

・万来町事件(1952年5月31日~6月5日)
口県宇部市では、生活保護の適用をめぐって朝鮮人と対立していた。
1952年5月31日以来、連日のように宇部市福祉事務所に押しかけていた。
6月3日には約400名が押しかけたので、宇部市警は全署員を非常招集し解散させたが、留守中の上宇部派出所が襲撃され、投石で窓ガラスが割られた。
6月5日になると、宇部市万来町(現在の宇部市新町9丁目)にある「朝鮮人解放救援会山口県本部」が「民主愛国青年同盟」の結成式を催すことになり、県内各地から朝鮮人たちが集まってきた。
その中の中核自衛隊員70名が宇部興産窒素工場に乱入し、阻止しようとした守衛に暴行を加えた。
その後、民団員宅を襲って傷害を与え、解放救援会山口県本部事務所に引き揚げた。
警察は犯人を逮捕するために解放救援会事務所を包囲し解散を呼びかけたが、彼らは投石をしたり、棒を振って警官隊に突入を図ったため、遂にガス弾を投入して鎮圧した。

・島津三条工場事件(1952年6月10日)
1952年6月10日、朝鮮人約50名が、京都市中京区にある島津三条工場に押しかけ、破防法反対のアジ演説を行ったので、工場側の要請を受けた警察官約15名が現場に急行、50代くらいの朝鮮人1名を検挙、京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。
同パトカーが春日通三条にさしかかった際、付近にいた朝鮮人約100名が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込み、乗っていた8名の警察官に重軽傷を負わせ、検挙者を逃走させた。

・醒ヶ井村事件(1952年6月13日)
警察は滋賀県坂田郡醒ヶ井村(現在の滋賀県坂田郡米原町)で、民団系朝鮮人を暴行して全治2ヶ月の重傷を負わせた事件で容疑者7名を逮捕するために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知してピケを張るなどして妨害したため大乱闘となり、公務執行妨害で40人、検挙予定の7名の内6名を逮捕した。

・葺合・長田事件(1952年6月24日)
6月24日に神戸市葺合区(現在の神戸市中央区)の東神小学校に約50名の朝鮮人が集まり、竹槍を持って無届デモを行ったので、2名を公安条例違反で検挙した。
これに対して9時半ごろ、葺合警察署に約100名の朝鮮人児童が押しかけて投石したため、実力で排除したが、別の一団が乱入し乱闘となった。
一方、長田区では、朝鮮人約150名が神楽職業安定所に向かったので警官隊が追跡したところ、投石したため、デモ隊を包囲して11名を検挙した。

・吹田・枚方事件(1952年6月24日~25日)
6・25朝鮮戦争前夜祭として、待兼山に参集した民戦系学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、警備体制に圧倒されて目標を変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したがこれも発見できなかったため、再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、さらに行進中交番2ヶ所および日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。
そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔面に火傷を与えた。
また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行の通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶・竹槍などをもって抵抗したために、警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。
一方、朝鮮人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾を仕掛けて爆破させた。これに呼応して、翌日朝、同市の小松正義(旧陸軍枚方工廠払い下げの取りまとめ役)宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。
逃走途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。
この事件での検挙者は113名であった。

・新宿駅事件(1952年6月25日)
国際平和デー閉会後、朝鮮人約3000名が新宿駅東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。
そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。
また、デモ隊の一部は新宿駅7番線ホームに入って、そこにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。

・大須事件(1952年7月7日)
大須球場で、ソ連・中国を訪問帰国した帆足計・宮越喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系の名古屋大学生に煽動された旧朝連系を含む約1000人が無届デモを敢行した。
岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、民間乗用車を燃やしたり、交番詰所に火炎瓶を投げ込んだ。
そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。
夜になっても、騒乱の現場から少し離れた鶴舞公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。
その結果、デモ側は死亡1名、重軽傷者19名を出した。
名古屋地方検察庁及び名古屋市警察はこの事件を重視し、261名(その内朝連系145名)を検挙した。

・舞鶴事件(1952年7月8日)
6月25日、朝鮮人約180名が舞鶴飯野造船所に侵入しようとして、それを阻止しようとした所員に怪我を負わせた事件が発生した。
7月8日にその事件の容疑者が舞鶴から綾部に逃走しようとしているのを警察が察知し、先回りして逮捕しようとしたところ、竹槍等で抵抗したため警官が発砲するなど大乱闘となった。
双方合わせて27名の重軽傷者を出し、12名を逮捕した。同日午後5時ごろ、朝鮮人数十人が、棍棒、石、ノコギリを持ち「逮捕者を返せ」と舞鶴西署に押しかけ同署のガラス数十枚を破り、警官ともみあいになり、8名を逮捕した。

・五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日)
1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、証拠物件を押収し、酒税法違反として45名を検挙した。
そのとき、激しく妨害したので、朝鮮人7名が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。
これに対して朝鮮人は反発し、板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行い、26日には、約60名の朝鮮人が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠した。

言うまでもありませんが、上記に記されている事件は、ほんの一部でしかありません。
当時の、三国人と言われていた人達が、如何に日本国内で悪事を繰り返し、日本人から平穏な生活環境奪い、劣悪な環境へと落とし入れ、抵抗する術を奪われた日本人の命が届け出て分かっているだけで4000名以上奪われている。
この様な殺人だけではなく、日本人の資産を奪い、強盗、強姦、傷害等の犯罪を繰り返していた、当時の日本国内の状況が、どの様なものであったのかは、今の日本国の平和ボケした世相では想像し辛いかもしれませんが、戦後の混乱期に悪行を繰り返していた在日の存在を忘れてはならないのです。
終戦当時、日本国内は復興へと力強く歩みだそうとしている時に、犯罪の限りを尽くしいた在日達は、その後、GHQの支援を失った共産党と結託して日本国の秩序を破壊していったのですが、日本国内が平静を取り戻すにつれ、在日という存在そのものを、自業自得で隠さなければならない状況に至ったのが、差別を全面に掲げて訴えた、通名使用なのです。
全ての原因を自らが作り出し、在日であることを詐称する為に、異常とも言える通名での生活が容認《創氏改名(日本併合時に強制的に日本名を使用させられたと訴えていた)令を法的根拠として在日は今、日本名を使用している。如何にもである。笑》されたのです。
つまり、この頃には、行政の中枢に左翼がすでに蔓延っていたということです。
戦争の犠牲者を騙り、寄生虫のように日本人の税金を今現在も集っているのが在日の現状なのです。
戦後、在日達が、自治体に対し圧力を加え続け、どの様に日本国の資産を収奪していったのか自治体に対する襲撃事件を見るだけでも、そこに至る経緯が窺えるのではなでしょうか。

※創氏改名に関しての詳しい内容は、2/11記事に記載してあります。





ノモンハン事件

2012.03.08(10:20)

ソ連軍戦車を捕獲した日本軍兵士
日本の教科書では、日本軍が大敗をしたノモンハン事件と教わる、ノモンハンの原野で展開されたソ連の満州への侵略行為と、それらの敵兵を撃破した日本兵の真実を語る1枚の写真である。


ノモンハンでの日本軍の行軍
この写真は、日本軍がノモンハンの原野を行軍している写真です。


この事件は、大東亜戦争の開戦に先立つ2年前の1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件です。

因みに、この事件の1年前に張鼓峰においても、ソ連軍の侵略によって起きている(張鼓峰事件)。


そしてノモンハン事件の話が出るたび、日本史や世界史の教科書、あるいはノモンハン事件について書かれた各種書籍には、次のように書かれている。

「旧式な装備しか持たなかった日本の関東軍が、ソ連軍の機械化部隊によって完膚なきまでに叩きのめされ完敗した」

「1万7000人もの犠牲を払い大敗を喫するという汚点を残しながら、日本陸軍はついに陸戦装備を近代化しなかったという愚行を犯した」

要するに、ソ連の近代的機械化部隊に、日本陸軍は完膚なまでに叩きのめされながら、その後も精神論に傾き、ついに陸戦装備を近代化することはなかった・・・・なんと日本軍はバカなんだろう、という論調が目立っています。

しかし、ソ連が、その自慢の機械化部隊で日本軍に圧勝していたのなら、どうして大東亜戦争の末期になって参戦したソ連は、わずかな手勢しかいなかった満州、樺太に120万もの大軍を出動させたのか。

ソ連が大勝利したというなら、どうしてその後、ソ連は大戦末期まで満州攻略を停止したのか。

ノモンハン以前から、ソ連はシベリアから満州、朝鮮半島、樺太、北海道へと、その勢力範囲を伸ばそうと、種々の画策をしています。

もし、ノモンハンでソ連が「勝った」というなら、騙し討ちを戦略の柱として戦闘してきたソ連軍が、停戦後、南下の動きを止め、満州東北部の北満鉄路の利権を売却したことへの説明がまるでつきません。

従来、このノモンハン事件については、ソ連側の発表による日ソ双方の死傷者数がひとりあるきしていたようです。

その事件当時、ソ連の発表によると、

ソ連の損害  9,284名
日本の損害 52,000~55,000名

とされていたが、日本兵は3万人しか実際には兵を投じておらず、これは当時、ヨーロッパ戦線に投入する兵器をシベリア鉄道で輸送し、極東方面を制圧後、とんぼ返りで兵器を再びヨーロッパで使用しようとした計画の失敗を隠蔽(この事件で投じた、殆どの兵器が日本軍により破壊された責任の追及から逃れる)する為の発表であると考えられる。

なるほど、この数字だけをみたら、ソ連大勝利、日本完敗に見えます。

ところが、ソ連崩壊後、あきらかにされたソ連の内部文書(これでも、当時の指揮官が粛清を逃れる為に、水増しした数字と言われている)によると、なんと

ソ連軍の損害 25,565名(ソ連側の数字はロシア人の戦死者のみで、負傷者とモンゴル人の死傷者は含まれていない)
日本側の損害 17,405名(日本側の被害は満州人を含めた、戦死者、負傷者、捕虜全てを合われた数字です)

これが、ソ連側の公開された被害報告書なのです。


そしてさらに、ソ連の「近代的機械化部隊」などというのも大ウソ。

戦車は、走行射撃もできない水準であり、戦車戦では全く問題にならず、日本軍の速射砲・高射砲のえじきになって、ソ連戦車は、約800台が破壊された。

ちなみに日本戦車の損害は、わずか29台。

これってどうみても、日本側の大勝利です。

また航空戦でも、ソ連はI-15では水平速度が劣り、I-16では旋回性能が劣った為、日本の九七式戦闘機に対して全く太刀打ちできなかった。

なんとソ連は、1673機もの戦闘機を失っていますが、対する日本側はソ連側の10分の1の被害、179機となっています。


なるほど、そうはいっても、日本側の死傷者は、戦死8,440名、戦傷8,965名の、合計17,405名に達し、大きな損害を出しています。

しかし、わずか3万の日本軍に対し、ソ連側は、当初10万、8月攻勢では30万の大軍を投入している。

実に、日本兵の事件での兵員投入総数の10倍の敵です。

日本軍は、基本路線として「ソ連を刺激しない」という不拡大方針をとっており、結果として国境を越えようとしてきた30万のソ連軍に対し、日本軍将兵は、わずか3万の兵力で戦った。

そして、大苦戦しながらも果敢に善戦敢闘して、ソ連を叩きのめしていることは、上記で明らかな通りです。


そして日本は、ソ連のあまりの兵力の大きさに、戦力の逐次増強を図り、最終的に約6万の援軍(しかし、援軍到着直後に、停戦命令(旧桜会一派の意向?)が下る)をノモンハンに送ったのです。

30万の機甲化軍団を、またたくまにわずか3万の兵力で粉砕されたことを知ったスターリンは、慌ててリッペントロップを通じてヒットラーに停戦の仲介を頼み込んだことは後の、米国ルーズベルト大統領が、日本参戦を促した時、躊躇した事からも日本軍への認識が窺えるだろう。

そして不拡大方針をとる日本政府と軍中央は、一方的に国境侵犯攻撃をしてきたソ連軍の非をとがめること無く、この停戦協定に応じた、というのが歴史の事実です。

ついでにいうと、終戦間際に、日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)を一方的に破棄して、対日戦に参戦したソ連は、すでに装備も武器もほとんどない関東軍の攻略のために、120万もの大軍を派遣していることからも、スターリンが、どれだけ日本軍を畏れていたかが知れようというものです。

ノモンハンでは、増援部隊の集結を得て、反撃を期していた日本軍兵士は停戦命令に激高しています。

当時ホロンバイル地区でソ連・モンゴル連合軍と戦った23師団は、熊本に司令部がありました。

戦後、熊本日日新聞社が発行した『熊本兵団戦史』(昭和40年発行)によると、「(ノモンハンでは)生き残った者の大多数が敗戦意識を抱いていない」と書いてある。

当時は存命の方が結構おられ、当事者のインタビューもある。

「ソ連軍には友軍同士の横のつながりがまったくない。隣の隊がどんなに困っていても、上から命令がなければ決して協力しない」

「(ソ連軍は)友軍機のおちるのがあっても、それを友軍機と思わぬ。おちるのは皆敵機と信じ込んでしまっている」

「野砲兵中隊は、のちのちまで敵戦車の数が多ければ多いほどエモノは多いと勇み立って、すこしも戦車を恐れなかった」

「ソ連兵が負傷すると大声で泣きわめくのでなんだ弱虫と笑った。格闘となれば(中略)1対1なら絶対勝つと確信していた。わが死傷者も多かったが、敵の死傷はさらに多かった」

そして、辻政信参謀(?)など関東軍作戦課の面々は、作戦中止の命令を聞いて怒り心頭だったともいいます。


そして、この戦いで、さらにもっと重要なことは、この戦いの2年前の1937年、外モンゴルでモンゴル人による大規模な反乱があったことです。

この事件で、モンゴルでは、モンゴルの前首相・参謀総長を含む2万8千人が処刑されている。
当時のモンゴルの人口は80万です。
この事件で人口の4%近くの人々が、ソ連によって虐殺されているのです。

いまの日本の人口比でいったら、なんと500万人が虐殺されたのと同じことです。

そしてモンゴルでは、それまでの粛清を加えたら、なんと総人口の6%がソビエト共産党員によって、粛正=虐殺されている。

そしてノモンハン事件の年にも、モンゴルでは、約千人が参加した反革命蜂起が起こっている。


当時のソ連は、そうしたモンゴルでの粛清の仕上げとして、モンゴル人(戦車では鎖で繋ぎ、逃走できないようにした、共産圏ではよくこの手法が用いられている)を楯にして満州に攻め込んだ。
断固たる決意で30万の兵力を結集して満州を攻め、短期間で制圧しようとしたのが、ソ連側のノモンハン事件での戦略でした。

もし、この大兵力を日本軍が途中で停戦せず、完膚なまでに叩きのめしていたら、ソ連・共産党の外モンゴル支配は完全に頓挫していた。

そして、内蒙古・満州内蒙古人勢力と協力した、モンゴル親日政権が誕生していた可能性が高いし、当時のシナ国内での共産勢力の貧弱さや、ヨーロッパ戦線でのソ連軍の戦略そのものが失敗に終わり、ソ連の国家戦略(共産圏の拡大策)も頓挫していたのではないだろうか。

つまり、ノモンハン事件とは、左翼にとっては日本軍を如何に貶める事件として捉え、国民の洗脳材料に利用してきたかである。

勇気をもって10倍もの兵力で侵略してきた敵に対し、祖国を守るために勇猛果敢に戦い、大切な命を捧げられた英霊達に対し、こうした売国反日左翼というのは、まさに日本国の癌であると言えるだろう。

彼ら反日売国の口舌の徒の冒頭記したようなノモンハンの英霊に対する失礼千万な言行は、我々日本人に対し、また世界の平和と安全を求めるすべての人々に対し、許しがたい愚行である!と申し上げたいのです。


ソ連が、どの様な外交を行い、対日戦への口実を作り上げていったのか。

◎米英ソ三国外相会談(モスクワ会談)(1943/10/19~1943/10/30)

 1943年の夏は、第2次世界大戦にとって重要な転換点であった。
ソ連はクルスクにおいて、ドイツとの史上最大規模の戦車戦に勝利し、このとき以降、ドイツを追撃することとなる。
一方、日本軍は、ガダルカナルの玉砕をはじめとして、戦局が窮地に追い込まれる序章を向えようとしていた。
こうした中、米国では、日本との戦争に、ソ連に参加を求める要請(コミンテルンの策謀)は高まっていった。
 モスクワで開催される外相会談に先立つ10月5日、米国大統領ルーズベルトは国務省スタッフとの会談で、千島列島はソ連に引き渡されるべきである、との見解を示した。
ルーズベルトは極秘情報でもない情報を与えられて、事実上、スターリンが千島列島の領有を要求し、結果的にそれを呑んだのである。
 10月19日から開かれたモスクワ会談の席上、ハル米国務長官は、ソ連外相モロトフに対し、千島列島・南樺太をソ連領とする見返りに、日本との戦争に参戦することを求めた。
この要求に対して、ソ連外相モロトフは即答を保留した。
モスクワ会談最終日の10月30日、晩餐会の席上で、スターリンは、ハル米国務長官に、ドイツに勝利した後に日本との戦争に参加すると伝えた。



◎カイロ会談とカイロ宣言(1943/11/22~1943/11/27)

 米国大統領ルーズベルト、英国首相チャーチル、中華民国総統蒋介石により、対日戦の軍事面での協力と将来の領土について話し合われた。
27日にカイロ宣言が発表された。
 カイロ宣言は米・英・中、三国の日本国に対する将来の軍事行動を協定したものであり、日本国の侵略を制止し、日本国を罰する為に、今次の戦争を行っていることが宣言された。
この宣言には「右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ(米・英・中の3カ国は、自国のために利益を求めているわけではなく、また、領土を拡張しようととの思いがあるわけではない)」と書かれているが、領土を拡張しないと明示されているわけではない。
 カイロ宣言では、戦争の具体的目的に以下のことが示された。
 ・第一次世界大戦後に日本が奪った太平洋諸島を剥奪する
 ・満州・台湾・澎湖島のように、日本が中国から盗み取った領土を中国に返還する
 ・日本が暴力・貪欲により略取した一切の地域から、日本を駆逐する
 ・朝鮮の人たちは奴隷状態に置かれているので、朝鮮に自由独立をもたらす
 (千島や南樺太については、特に明示されていない。)

このカイロ宣言を踏襲する形で、ポツダム宣言{「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言。}が形成されている。


ここ重要です。
ポツダム宣言の骨子に、『13条、全日本軍の無条件降伏。以上の行動に於ける日本国政府の誠意について、同政府による保障が提供されること。』とある。
つまり、日本国政府は、連合国に対し条件付き降伏をしたのであって、無条件降伏を行ったのではない、無条件降伏を行ったのは日本軍〈戦争責任の全て負う、この記載によって、極東国際軍事裁判(東京裁判)が行われた〉であるという事です。
戦後、日本国の報道機関は進駐軍の指示の下、事実を国民に隠蔽し、日本国は連合国に無条件降伏を行ったと報じたのです。
よく、TVで繰り返し報じられている玉音放送の「耐えがたきを耐え」の一文を繰り返し流していたことを覚えている人がいるだろう。
正しく、国民は洗脳されたのです。



◎テヘラン会談(1943/11/28~1943/12/1)

 テヘラン会談はカイロ会談に引き続き行われた。
米国ルーズベルト、英国チャーチル、ソ連スターリンのほか、イギリス外相イーデン、ソ連外相モロトフ、ローズベルト側近ホプキンズ、さらには三国の軍指導者らが出席した。
会談の主な目的は連合国側の作戦の調整(第2戦線)であったが、会談での議題は多岐にわたり、戦後の世界平和維持機構の枠組みなどについての意見交換もあった。
会談の最大の成果は、北フランス上陸作戦(ノルマンディー上陸作戦)を決行することが了解されたことである。
 この会談の中で、スターリンは、ルーズベルトに対して、ドイツ降伏後、日本との戦争に参戦することを約束している。
 ルーズベルトは帰国後の演説で、ソ連は南樺太と千島の引渡しを望んだと報告している。
ただし、会談の公式記録には、報告のような内容はない。

 対ドイツ戦線において、英首相チャーチルは、バルカンからの上陸を主張した。
しかし、ルーズベルト・スターリンの意向で、ノルマンディー上陸が決定された。
バルカンから米・英軍が上陸すると、戦後の東欧における勢力バランスで、米・英が有利になる。
一方、ノルマンディー上陸では、東欧の多くがソ連圏に入ることになる。
チャーチルの提案は、戦後の勢力拡大を狙ったものだった。
しかし、バルカンからの上陸作戦では、激しいドイツ軍の抵抗が予想され、米・英軍に大きな損害が見込まれた。ルーズベルトは、戦後の勢力拡大よりも、米軍兵士の損害を少なくすることを選んだのだった。
 ルーズベルトは、スターリンに対して、ドイツ戦に勝利した後に、日本との戦争に加わることを求めている。
もし、米軍が、満州国の関東軍と戦うことになると、陸上での戦車戦になるので、補給の問題を考えても、米国には過剰な負担を強いられる恐れがあった。
スターリンに対する、ルーズベルトの提案は、米軍兵士の損害を、なるべく少なくする目的でなされたものだった。



桜会

2012.02.29(18:39)

『桜会(さくらかい)とは、日本の軍事国家化と翼賛議会体制への改造を目指して
1930年(昭和5年)に結成された超国家主義的な秘密結社である。』

この認識が、多くの国民が持つ桜会の知識ではないでしょうか。
しかし、この桜会のスポンサーが、ソ連のスターリン《資金元は、1923年にレーニンの指示で、吉田一がヨッフェから60万円(現在の貨幣価値で約40億円)を受け取った。この資金が後に、桜会に渡ることとなる。〈更に、この時に受け取った資金の残金が、戦後、日本社会党の結党資金となっている。〉》であることを知る者が一体どれだけ存在しているのか。
日本軍人を共産勢力のコントロール下に置くという陰謀を成功させる為にコミンテルンの秘密結社でありながら、表向き日本軍の軍閥として結成されたのが「桜会」だったのです。
この会を設立後、どのような事件が起き、日本国が翻弄されていったのかを調べていくと、当時の左翼の陰謀が見えてくるということである。
戦前の日本は、軍部が暴発して戦争へと向かっていったとする起点として名が挙がるのが、所謂226事件です。

しかし、この226事件は本当に国粋系組織である皇道派と呼ばれる青年将校たちが起こしたクーデター未遂事件で、皇道派は政財界と結んでいた統制派を倒して天皇をまつりあげようと目論んでだとされていますが、226事件に至るまでの過程にどの様な動きがあり、何故226事件に至ったのかを調べていくと、左翼の念密に練られた日本国を貶める計画が明らかになってきたのです。
この情報を知ることで、今行われている日教組教育の異常なほど日本軍を貶める教育が成されているのかが理解できるのではないか。
この日本近代史の闇の部分を紐解く事で、当時の共産主義者達の陰謀が解読されるのではないかと思い「桜会と共産主義者」の謀略を世に示す事を目的として今回、戦後の捏造教育からの解脱の進める事を目的に記載しました。
日本国をどの様に戦争へと導いたのかが読み取れると思います。


先ず桜会は、参謀本部の橋本欣五郎中佐、長勇少佐らが、政党政治が腐敗している{当時、共産主義者は、「共賊」と呼ばれ党として政治活動することが出来なかった為、大学やメディア等で一定の発言力を得た段階に於いて、国民に対して戦争へと向かわせる扇動工作で謀略を浸透させ、国民を窮地に追い込むことにより支持拡大を企てた。共産主義者にはインテリ(自分が騙される筈がないという暗示を自らに懸けてしまう)が多い事が1つの特徴である}とするとともに国民の大多数を占める農民{岡田内閣がデフレ政策を執り、緊縮財政下での農作物の豊作(デフレにより、物価が下落した時に米が豊作となり、米価の価格が暴落した)と不作(不作により収穫量が減少し、それを補うためにコメを半島から輸入した為、米価に変動が無く収入が激減)により、東北地方では生活苦で身売りするまでに至った農家が急増した}の窮状に日本の将来が危惧されるとして、朝鮮や満州への投資の不当性を主張して農民の指示拡大を謀った、左翼(共産主義者)の自作自演の人為的不況だったのです。
このデフレ不況からの脱却に白羽の矢が立ったのが、後に226事件で射殺された高橋是清だったのです。
このデフレ政策と採算が取れない状態に追い込まれる米価により、農家出身で桜会の主張に同調する東北地方出身者の若者が多く参加している要因となっているのが特徴と言える。
この東北出身者である彼らの大半が後に、皇道派として226事件に参加したのである。
このデフレ政策というのは左翼が国民の生活を窮地の追い込む時に頻繁に使う手法ですので皆さんで左翼の動きを注視していきましょう。
当時は第一次世界大戦後のハイパーインフレを改善する為に、金本位制を復活させてハイパーインフレを脱却しようとする世界の金融方針が金本位制に統一され、後にアメリカ発の金融恐慌に陥ったのが桜会設立1年前の1929年です。
世界が金本位制を導入してデフレへと突入して、世界恐慌へと陥った事を日本国を不況に落とし入れる手段として活用したのが、翌年の1930年、濱口内閣によって行われた金解禁(昭和4年大蔵省令第27号)で、日本国の金本位制導入だったのです。
この時の大蔵大臣は、1932年に血盟団事件で射殺された井上準之助です。
正に、金本位制を導入した年に、桜会設立という左翼が日本滅亡を企て、左翼の言う革命計画が実行に移されたのです。
この時既に、官僚を支配下に置いていた(官僚は当時から帝大法学部出が占め、この帝大法学部を中心に存在した新人会で日本共産党の下部組織として存在し、卒業後各官庁に入省していた。新人会は、1918年12月結成、1929年11月に解散するまで、戦前の日本における学生運動の中核的存在で、判明している会員数だけでも延べ、約360名に達している。)左翼が、次に目指したのが、軍部を支配下に置く(1928年に行われた第6回コミンテルン会議で、スターリンが指示した「敗戦革命」を実行する為)ことだったのです。

官僚支配下に置く為の活動は、1918年~1929年の11年間活動した新人会が主導的役割を果たし、官僚をコントロールできる体制を整えた後、新人会を解散した。
その翌年、日本国崩壊の序章として金本位制を導入したのである。
この金本位制とは、それまで好調を維持していた日本経済を緊縮財政政策に切り替え、デフレ不況を演出して、国民に政府への不満を抱かせ、国内に不満分子を増発させて左翼勢力の拡大を企てた政策なのです。
このデフレ状態を人為的に発生させ、日本国を混乱に陥れ国体の破壊を企てた左翼の陰謀と、現在の日銀指針であるデフレ維持策がどの様な意味を示しているかが想像できるだろう。
インフレとは成長であり、過度な成長はバブルを生む、インフレがバブルに至らない様に、インフレの上限値であるターゲットを設定してコントロールすることが、日銀の本来の仕事なのです。

今の日銀が行うデフレ容認の姿勢は、戦前の好調だった日本国経済を人為的に窮地に追い込んだデフレ政策が、ダブってしまうということに気付かれた方も多いと思います。
左翼にとって、国の存在は悪で、国境無き世界の構築が究極の目的なのです。
ですから、国の象徴である皇室(君主制)の崩壊を模索し、今も活動しているのが左翼なのです。
 左翼の手法としてよく用いられているのが、国民が非難し辛いネーミングを団体名に付け、活動していることです。
「自由」、「平和」、「市民」、「平等」、「共生」左翼の団体によく使用されている名称であり、事業名であるのです。
この名称が目に入ったら、裏で『利権』を得て活動している左翼団体と考えることが出来る。
何故、この様な記載をしたかというと、戦前もこの手法で国民を欺いてきたからなのです。

「桜」とは、日本人の心であり、桜=国家を印象するのがある意味正常な思考であり、戦前もこの思考は同様というか、現代以上といってよいのではないか。
 桜会=日本人の会と感覚的に思ってしまう、正に国民を欺く最適なネーミングだったのです。
この桜会が、まさかコミンテルンの秘密結社だなんて謀略した者以外、その疑義を持つ者は誰も居なかったのです。

少し、話が飛んでしまったので、1930年から導入した金本位制は昭和恐慌を生じさせた。
では、金本位制の導入で日本国がどの様な経済状況に至ったのかを説明しましょう。
1930年の農家は豊作に恵まれ、本来ならば文字通り豊かな生活が送れると思いきや、金本位制の導入により、国内には通貨が不足する状況にあり、且つ朝鮮や満州からの米の輸入によるコメのダブつきが米価の暴落に拍車をかけたのです。
所謂、豊作貧乏という状況でした。
この時の農家不況は昭和農業恐慌といわれているが、この恐慌が、後に日本国が戦争へと踏み出す要因を生み出したのである。
このコメのダブつきを回避する為、半島から本土へのコメの輸入が一時的に禁止されたのです。
金本位制は、昭和恐慌を生み出したが、昭和恐慌からの脱却の命運をかけ、白羽の矢が立ったのが先にも記載した高橋是清である。
日本崩壊の寸前で、高橋是清が再度現れ、日本経済を立て直してしまったのです。
つまり、左翼にとって高橋是清は、正に目の上のタンコブだった事を頭に置いておいて下さい。

この時に共産党が目を付けたのが東北地方(東北地方は)で、共産主義を根付かせる為にデフレ不況を意図的に起こし、国民の思想に共産思想を浸透させるのが狙いだったのです。
自らが保管するコミンテルンの資金価値を上昇させ、(デフレ下では、現金を有する者がそれを保管するだけで、その価値を増していくのです。つまり、60万円を箪笥貯金して置くだけでその価値が上がるのである)同時に、国民を苦しめることで、共産思想の浸透を謀り、その支持を拡大させる。
これが、当時国内で支持基盤が無い左翼の初期段階での戦略だったのです。
 これは、関東大震災に於ける日本国政府の対応として、朝鮮への出資を抑える事無く、国内の財政縮小(デフレ誘導)による対応で国難に対処するとする政策への疑問を呈し、東北の住民が生活困難に陥った事を利用し、皇道派の多い東北出身者を天皇陛下に「暴徒」として制圧させ殺害し、この地方での皇室に対する不信感を植え付けることも同時に行っているのです。
更に、日本軍の中枢で統制派が主導権を握り、日本が戦争へと至る切っ掛けとなったのが、226事件である。
桜会は、十月事件後に解散しているんですが、この解散にも大きな疑義が生じているのです。
この解散に、あれっと思った方はいい感性を持っていますね。
これは、官僚を牛耳る為に設立した新人会が解散したことと、ある意味同じで、既に最終局面に入った事を意味していると同時に、解散することで批判の火の粉が飛び散らない様に前もって解散したのです。
その証拠に、あの226事件後、統制派が日本軍の中枢に潜り込むことにまんまと成功したのです。
このことは、天皇陛下が後に、1936年の226事件を起した皇道派を憎み、この事件を軍部支配のために利用していった統制派を批判されていたことでも理解出来るでしょう。
つまり、陛下は226事件の本当の黒幕(仕掛け人)を認識していたです。

 では、その事を頭に置き解析していきましょう。
 同会に所属していた多くの統制派(共産主義者)将校が226事件勃発後、陸軍内で台頭していったのである。
つまり、226事件とは、共産主義者が日本軍の中枢で発言力を得る為の自作自演だったのです。
この事件後、従来の反ソ路線を廃して反英反中へと転換させたことも、ソ連の意図が関与した考えると関東軍が駐屯している戦略的意義を蔑ろにして、対ソから対中へと方針転換させた近衛内閣(朝食会や昭和会という知識人(共和国主義者)による政策意見交換の場を設け、日本国崩壊の謀議を繰り返していた)の意図が理解できるだろう。
それを裏付けるように、この政策の根拠となる決定が、1928年の第6回コミンテルン会議でスターリンが指示した「敗戦革命」なのです。
敗戦革命とは、帝国軍同士(日本軍と国民党軍)を戦争に追い込み国家体制を弱体化させた後、共産革命を起こし共産圏を拡大させることをいう。
つまり、国民を戦争という大義名分により殺害し、且つ、尊皇派への国民の支持を軽薄化した後、革命を実行する事が敗戦革命と並行して実行されたのが、大東亜戦争なのです。
 桜会は政党内閣を廃して軍事政権を樹立する国家改造構想を抱いていました。
これは、統制派のリーダーである陸軍省軍務課長の永田鉄山が1931年に書いた「皇政維新法案大綱」に繋がっているのです。
コミンテルンが描いたシナリオは、あくまでも戦争は天皇を元帥とする帝国主義、富国強兵の国策が至らしめたものであり、日本国政府はその動きを抑えきることが出来なかったと主張する為の軍人主体での戦争であるとする工作であって、国民は日本軍の被害者(左翼勢力はこの方針を悪用し、天皇陛下に戦争の責任を負わせ、反君が代、反日の丸に結び付けて、国体の解体を謀り、実行している)であるとする為のカモフラージュを行っているのです。
彼らは1930年9月にコミンテルンの指示で「桜会」を結成し、参謀本部や陸軍省の中佐以下の中堅将校100余名を巻き込み、その一部の共産主義者が主導した巧妙な茶番劇だったのです。




桜会は大川周明らと結託して、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画しますが、いずれも未遂(これらの事件は、あくまでも事件を起こそうとしたとする既成事実として計画されたものであり、統制派の真の狙いは、226事件で日本軍の中枢を制圧する事なのです)に終わっている。
この事で、結果的に軍部の独走を助けたとされているが、この未遂事件、未遂の為の未遂では無かったのか。
未遂に終わらせ、事をあからさまにする事により桜会を解散させ、226事件での責任を皇道派に負わせ、統制派にその責が及ばないよう謀ったのではないかという疑義が色濃く残るのです。
この絡繰りに、国民は、まんまと騙されたのではないだろうか。
つまり、十月事件を失敗に至らせた後、桜会を解散させた上で、226事件を起こさせて皇道派の一掃を謀り、コミンテルンの手先である統制派が日本軍の中枢にまんまと潜り込んだのである。
改めて考えてみると、この共産主義者の工作の周到さは、現在の左翼が、戦後、活発化した学生運動で過激な行動に走る若者たちが共産主義への熱が冷め、活動の鎮静化が進み、政治運動に一定の距離感を保ち始めた感情が国民の間に漂っている事を利用し、似非街宣右翼を用い、国民に右翼(日の丸)への嫌悪感を植え付けることにまんまと成功したのです。
考えてみれば、学生運動も似非右翼も共に、左翼の活動なのです。
この事に、国民は再び騙されようとしているのです。
以上の経過を辿り、左翼は現在、国家機関の中枢を占め、再び、政策の主導を成しているという事実が、戦前の左翼の政界、軍部中枢への浸透手法とダブってしまい、とても怖いですね。

少し飛んでしまいましたので、桜会へとまた戻ります。

桜会の人員ポストは
■陸軍省 9名
■参謀本部 38名
■教育総監部 2名
■陸軍大学校(在籍中) 15名
■憲兵司令部 7名
■そのほか 25名

となっている。
以後、桜会のおおまかな流れを記載してみる。

参謀本部にこれだけの人員がいるのはすごいことである。
桜会はほとんど参謀本部所属の陸大卒少壮将校(中堅幕僚)によって構成されていたと見ていいだろう。
ついでに、桜会の者で陸大を出ていない、陸士あがりの課員が2人いる。秋草大尉と天野中尉である。
この二人は陸大を出ていないのに参謀本部に配属されたということから相当な実力をもっていたようである。

例えば秋草大尉は、近衛歩兵第一連隊から東京外語へ委託学生として覇権され、ロシア語を修得し、かなりロシア語に堪能であったと定評があった。
また、昭和13年7月に創設された後方勤務要員養成所の創始者でもある。
後方勤務要員養成所、後の陸軍中野学校(通常東部第三三部隊)のことである。

また桜会には有名な人間が数多く在籍している。
名を挙げてみれば、
牟田口廉也、根本博、河辺虎四郎、土橋勇逸、武藤章、富永恭次、長勇、片倉衷、辻政信・・・
などは少し陸軍のことを知っている方なら「ああ、あの人か」とすぐ思いつくだろう。

さらに余談であるが、陸士卒と陸大卒の大きな相違は陸士卒が退役までずっと隊付将校として軍隊の骨幹を形成するのに対し、陸大卒にとっての隊付は全然違う。
一定年月隊付勤務をすることは単に出世のためのワンステップであり、将官に昇進直前になって隊付期間の不足を理由に予備役編入された例もあるくらいだ。

大抵の陸大卒業生は原隊へ復帰して中隊長等の職務について1,2年後、中央三官衛の各課に配属されるのが普通であった。一部の者は陸士や歩兵学校の教官、軍、師団の参謀に派遣されることもあった。
これは卒業序列の上のものからいいとこへ行けると解していいだろう。
(また恩賜組には権利みたいものがあってこれを「株」と称していた。)
ついでに、陸士の教官は陸士出が担当することになっていて、昭和9年8月に辻政信(当時は大尉)が陸士の中隊長になったのは異例のことであった。
これは彼が強く希望して実現したもので、辻はこの職務において士官学校事件に関与することとなる。もとよりこれを狙っていたのは間違いあるまい。
恩賜の軍刀を授かる優秀な成績で出た者には先に述べたように海外派遣か、作戦関係の部署に配属された。
話を戻して・・・。

会の目的は端的に言うと
「国家改造を以て終局の目的となしこれがため、要すれば武力を行使するを辞せず」
ということであり、3月事件、10月事件に暗躍した。

3月事件とは、昭和6年3月、桜会の橋本、長ら中堅将校が立案して、それを小磯国昭軍務局長、建川美次(参謀本部第二部長)、重藤千秋(参謀本部支那課長)らが支援した。密かにではあるが陸軍次官杉山元、参謀次長二宮治重も支援者であった。
さらに大川周名、徳川義親、清水行之助ら民間人に亀井貫一朗、赤松克麿の無産政党までもが加担していた。

シナリオは、今開催中の議会(第59回帝国議会)を大川・亀井等が一万人の大衆を動員して議事堂を包囲し、鎮圧の名目で軍隊を出動させる。この混乱に乗じて宇垣陸相を担ぎ出して軍部独裁政権による国家改造を断行しようとするものであった。
が、結局この計画は宇垣・小磯らの動揺→変心で中止となった。

実はこのシナリオの土台となったのは永田鉄山が計画案を立案し、それを橋本らが編集し直したという話もある。

事件に対する首謀者の処罰もなくウヤムヤに終わったおかげで、満州事変の当事者にある程度の安心感を覚え、10月事件へ、青年将校は226事件へと波及することになろうとはこの時、陸軍中央は想像もしてなかった・・・。
3月事件については陸相宇垣も一枚噛んでいたし、彼らを取り締まるべき立場である軍務局長らでさえ加担していたのだから証拠隠滅も可能であった。
ちなみに宇垣らが支援したのはただ若い連中から取り残されるのを恐れた為であったという。折しも下克上の空気が蔓延していたのが一因であろう。

のちに内大臣木戸幸一は東京裁判において
「3月事件がその後もろもろの事件の元凶である」と指摘した。
さすがに鋭い洞察力を持っている。
だてに内大臣という要職を任されてはいないのだ。


同年10月には、同じ桜会メンバーで今度は9月に石原・板垣らが中心となって勃発させた満州事変を成功させるための国内改造を狙い、当時青年将校らから大人気であった荒木貞夫教育総本部長を首班とする革新政権を樹立せんとした事件、10月事件が起こった。
橋本欣五郎はこれを「錦旗革命」と称した。
さて事件は起こったというよりも今回もまた、未遂に終わったのである。
これは荒木に担がれる気がなく、内部分裂、脱落なので結局断念せざるを得なくなったというものである。
今回の首謀者達には転属・訓告など軽い処分を受けたが、今回もまた上層部には波及しなかった。


しかし桜会はこの事件をもって一応解散となり、派閥的には少数派である清軍派に転落していった。
清軍派は皇道派を嫌い、後の皇道派と統制派の対立の中で統制派に加わっている。
さらに付け加えると、石原らの満州派が統制派に加わったものを「新統制派」と呼称する場合があるので気を付けておきたい。


軍人の政治介入に関して、宇垣は戦後回想録の中で、自分自身は三月事件に関わりなかったと述べている。
しかし、彼が無関係であろうはずもなく、桜会に便乗する形で内閣首班を考えていたであろうことは否定できない。
そういえば、陸相を通じる以外の軍人の政治関与は軍人勅諭でも
「世論に惑わず政治に拘わらず・・・」
と禁じられてきたところ、昭和6年1月に陸相宇垣自らが
「国防は政治に優先する」
と述べて、軍人の政治関与を是認しているではないか。

ともかくも宇垣の人望はこの三月事件で完全に潰えたと言える。
後の昭和12年に広田内閣の後を受けて組閣の大命が彼に下ったが、陸相のなり手が得られず、流産内閣となった。
これは宇垣軍縮の復讐というよりも、三月事件での心変わりへの反感によるものと言えるだろう。

三月事件のあと、宇垣は浜口内閣の余命が短いことを確信し、サッサと伊豆長岡の旅館に引きこもった。いずれ自分にお鉢が回ってくるだろうから、それまでのんびりしようと思ってたのであろうが、4月14日に第二次若槻内閣が成立し、6月になってようやく彼に回ってきたのは予備役編入と島流しとも言える朝鮮総督のポストだった・・・・。

荒木貞夫は、1918年のシベリア出兵当時、シベリア派遣軍参謀で、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。
そのため荒木は反ソ・反共の右派的体質を身につけただけでなく、ソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者でしたが、226事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線から退く結果に至ってしまった。


橋本欣五郎は、トルコ公使館付武官でしたが、この時、ムスタファ・ケマル・パシャの革命思想に接して、その後の趣味は「革命」。
帰国後、参謀本部ロシア班長となり、1930年に参謀本部の将校らと密かに桜会を結成。
三月事件・十月事件を計画するも失敗に終わり、桜会は解散させられる(しかし当の本人は軽い刑で済んでいる。当時日本最強の陸軍部隊であった関東軍にいた石原が陸軍中央部に圧力をかけたためといわれている)。
戦後の東京裁判において、A級戦犯として起訴されたのは、連合国側が三月事件・十月事件を「侵略計画の発端」とした事が最大の要因であると推測されている(木戸幸一も同様の見解を示していた)。

また、226事件の際には、自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、予備役へ回される事となる。

その後、日中戦争の勃発に伴い、再び召集されたが、南京攻略戦の際に日本海軍の攻撃機に南京から脱出する船舶を攻撃するようにと命令し、アメリカの砲艦パネー号(正しくはパナイ号)を撃沈し死傷者を出し、さらにイギリス砲艦レディバード号にも被害を与えた(レディバード号事件)という責任を取って陸軍砲兵大佐で退役した。

同年大日本青年党(のち大日本赤誠会に改称)を組織しファシズム運動を展開、近衛文麿首相が掲げる新体制運動にも積極的に協力した。
1942年の翼賛選挙で衆議院議員に当選し、翼賛政治会総務に就任した。



日本ファシズムを規定するならば、


A1.家族主義的傾向
A2.農本主義思想の優位
A3.アジア民族解放の理念
A4.反資本主義的傾向


というイデオロギーを含んだ、


B1.経済恐慌
B2.対外危機の切迫


による、


C.小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、自作農上層、学校教員、村役場の吏員、僧侶、神官


を社会的担い手にした運動である。

作者が書いているとおり、丸山眞男『現代政治の思想と行動』(未来社)所収の論文に依拠した規定ではあるが、本書の基本的視座は、桜会クーデター計画に端を発する陸軍内軍閥抗争の開始から、皇道派および統制派をA2「農本主義思想の優位」A4「反資本主義的傾向」に焦点を絞って分析するところだろう。

いわば本書は陸軍軍閥抗争史であり、社会的担い手や対外状況の分析、軍外部の民間右翼はとりあえず分析対象から捨象されている。

大川周明、北一輝、井上日召と軍の関係は多少言及されているが、権藤成卿や橘孝三郎、田中智学や細木和子の夫であった安岡正篤などについては残念ながらほとんど記述がない。もちろん彼ら民間右翼の軍への影響は非常に希薄であっただろうが、社会的担い手の問題とともに論じて欲しかった。

ちなみに本書には、小さい活字二段組で150ページにわたる一次資料が収録されているのだが、みすず書房『現代史資料4 国家主義運動1』『現代史資料5 国家主義運動2』と重複するものが3点しかなく、貴重なものといえる。

概して派手さはないが、陸軍内部の抗争を通史的に概観するのに便利な1冊である。なお復刻版『軍ファシズム運動史』が原書房から出ているが、こちらも絶版である。




付録資料目次

皇政維新法案大綱(昭和6年9月)
昭和7年1月○○大佐手記(いわゆる田中清手記)
桜会趣意書および桜会人名録
荒木陸相の斎藤総理への書簡および緊急施策基礎案(昭和9年1月)
政治的非常時変勃発ニ処スル対策要綱(昭和9年1月5日改訂)
国防の本義と其教化の提唱(昭和9年10月1日)
麻生久「陸軍のパンフレツトに就て」(昭和9年10月)
士官学校事件計画の概要(昭和9年11月)
軍政権樹立と大陰謀発覚(昭和9年末)
全皇軍青年将校に檄す(昭和10年2月)
昭和の安政大獄(昭和10年6月)
総監第一回長官会議開陳ノモノ(昭和10年7月12日)
教育総監更迭事情要点(昭和10年7月)
軍閥重臣閥の大逆不逞(昭和10年7月)
陸海軍青年将校に檄す(昭和10年8月)
永田最後の意見具申原稿(昭和10年8月11日)
陸軍当面の非常時政策(昭和10年9月18日)
戒厳司令部職員表(昭和11年2月27日)
二・二六事件日誌(編者作成)
内閣更迭の場合陸軍大臣の入閣条件として要求すべき事項(昭和12年1月23日参謀本部)
軍務課政変日誌(昭和12年1月)
林内閣の政綱案(昭和12年1月)
林内閣成立の経緯(浅原健三日記 昭和12年2月)
重要産業五年計画要綱(昭和12年5月29日)







近代日本史

  1. 玉音放送(08/16)
  2. 桜会創設の裏 三月事件(03/09)
  3. 在日達の素顔(03/08)
  4. ノモンハン事件(03/08)
  5. 桜会(02/29)
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