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桜会

2012.02.29(18:39)

『桜会(さくらかい)とは、日本の軍事国家化と翼賛議会体制への改造を目指して
1930年(昭和5年)に結成された超国家主義的な秘密結社である。』

この認識が、多くの国民が持つ桜会の知識ではないでしょうか。
しかし、この桜会のスポンサーが、ソ連のスターリン《資金元は、1923年にレーニンの指示で、吉田一がヨッフェから60万円(現在の貨幣価値で約40億円)を受け取った。この資金が後に、桜会に渡ることとなる。〈更に、この時に受け取った資金の残金が、戦後、日本社会党の結党資金となっている。〉》であることを知る者が一体どれだけ存在しているのか。
日本軍人を共産勢力のコントロール下に置くという陰謀を成功させる為にコミンテルンの秘密結社でありながら、表向き日本軍の軍閥として結成されたのが「桜会」だったのです。
この会を設立後、どのような事件が起き、日本国が翻弄されていったのかを調べていくと、当時の左翼の陰謀が見えてくるということである。
戦前の日本は、軍部が暴発して戦争へと向かっていったとする起点として名が挙がるのが、所謂226事件です。

しかし、この226事件は本当に国粋系組織である皇道派と呼ばれる青年将校たちが起こしたクーデター未遂事件で、皇道派は政財界と結んでいた統制派を倒して天皇をまつりあげようと目論んでだとされていますが、226事件に至るまでの過程にどの様な動きがあり、何故226事件に至ったのかを調べていくと、左翼の念密に練られた日本国を貶める計画が明らかになってきたのです。
この情報を知ることで、今行われている日教組教育の異常なほど日本軍を貶める教育が成されているのかが理解できるのではないか。
この日本近代史の闇の部分を紐解く事で、当時の共産主義者達の陰謀が解読されるのではないかと思い「桜会と共産主義者」の謀略を世に示す事を目的として今回、戦後の捏造教育からの解脱の進める事を目的に記載しました。
日本国をどの様に戦争へと導いたのかが読み取れると思います。


先ず桜会は、参謀本部の橋本欣五郎中佐、長勇少佐らが、政党政治が腐敗している{当時、共産主義者は、「共賊」と呼ばれ党として政治活動することが出来なかった為、大学やメディア等で一定の発言力を得た段階に於いて、国民に対して戦争へと向かわせる扇動工作で謀略を浸透させ、国民を窮地に追い込むことにより支持拡大を企てた。共産主義者にはインテリ(自分が騙される筈がないという暗示を自らに懸けてしまう)が多い事が1つの特徴である}とするとともに国民の大多数を占める農民{岡田内閣がデフレ政策を執り、緊縮財政下での農作物の豊作(デフレにより、物価が下落した時に米が豊作となり、米価の価格が暴落した)と不作(不作により収穫量が減少し、それを補うためにコメを半島から輸入した為、米価に変動が無く収入が激減)により、東北地方では生活苦で身売りするまでに至った農家が急増した}の窮状に日本の将来が危惧されるとして、朝鮮や満州への投資の不当性を主張して農民の指示拡大を謀った、左翼(共産主義者)の自作自演の人為的不況だったのです。
このデフレ不況からの脱却に白羽の矢が立ったのが、後に226事件で射殺された高橋是清だったのです。
このデフレ政策と採算が取れない状態に追い込まれる米価により、農家出身で桜会の主張に同調する東北地方出身者の若者が多く参加している要因となっているのが特徴と言える。
この東北出身者である彼らの大半が後に、皇道派として226事件に参加したのである。
このデフレ政策というのは左翼が国民の生活を窮地の追い込む時に頻繁に使う手法ですので皆さんで左翼の動きを注視していきましょう。
当時は第一次世界大戦後のハイパーインフレを改善する為に、金本位制を復活させてハイパーインフレを脱却しようとする世界の金融方針が金本位制に統一され、後にアメリカ発の金融恐慌に陥ったのが桜会設立1年前の1929年です。
世界が金本位制を導入してデフレへと突入して、世界恐慌へと陥った事を日本国を不況に落とし入れる手段として活用したのが、翌年の1930年、濱口内閣によって行われた金解禁(昭和4年大蔵省令第27号)で、日本国の金本位制導入だったのです。
この時の大蔵大臣は、1932年に血盟団事件で射殺された井上準之助です。
正に、金本位制を導入した年に、桜会設立という左翼が日本滅亡を企て、左翼の言う革命計画が実行に移されたのです。
この時既に、官僚を支配下に置いていた(官僚は当時から帝大法学部出が占め、この帝大法学部を中心に存在した新人会で日本共産党の下部組織として存在し、卒業後各官庁に入省していた。新人会は、1918年12月結成、1929年11月に解散するまで、戦前の日本における学生運動の中核的存在で、判明している会員数だけでも延べ、約360名に達している。)左翼が、次に目指したのが、軍部を支配下に置く(1928年に行われた第6回コミンテルン会議で、スターリンが指示した「敗戦革命」を実行する為)ことだったのです。

官僚支配下に置く為の活動は、1918年~1929年の11年間活動した新人会が主導的役割を果たし、官僚をコントロールできる体制を整えた後、新人会を解散した。
その翌年、日本国崩壊の序章として金本位制を導入したのである。
この金本位制とは、それまで好調を維持していた日本経済を緊縮財政政策に切り替え、デフレ不況を演出して、国民に政府への不満を抱かせ、国内に不満分子を増発させて左翼勢力の拡大を企てた政策なのです。
このデフレ状態を人為的に発生させ、日本国を混乱に陥れ国体の破壊を企てた左翼の陰謀と、現在の日銀指針であるデフレ維持策がどの様な意味を示しているかが想像できるだろう。
インフレとは成長であり、過度な成長はバブルを生む、インフレがバブルに至らない様に、インフレの上限値であるターゲットを設定してコントロールすることが、日銀の本来の仕事なのです。

今の日銀が行うデフレ容認の姿勢は、戦前の好調だった日本国経済を人為的に窮地に追い込んだデフレ政策が、ダブってしまうということに気付かれた方も多いと思います。
左翼にとって、国の存在は悪で、国境無き世界の構築が究極の目的なのです。
ですから、国の象徴である皇室(君主制)の崩壊を模索し、今も活動しているのが左翼なのです。
 左翼の手法としてよく用いられているのが、国民が非難し辛いネーミングを団体名に付け、活動していることです。
「自由」、「平和」、「市民」、「平等」、「共生」左翼の団体によく使用されている名称であり、事業名であるのです。
この名称が目に入ったら、裏で『利権』を得て活動している左翼団体と考えることが出来る。
何故、この様な記載をしたかというと、戦前もこの手法で国民を欺いてきたからなのです。

「桜」とは、日本人の心であり、桜=国家を印象するのがある意味正常な思考であり、戦前もこの思考は同様というか、現代以上といってよいのではないか。
 桜会=日本人の会と感覚的に思ってしまう、正に国民を欺く最適なネーミングだったのです。
この桜会が、まさかコミンテルンの秘密結社だなんて謀略した者以外、その疑義を持つ者は誰も居なかったのです。

少し、話が飛んでしまったので、1930年から導入した金本位制は昭和恐慌を生じさせた。
では、金本位制の導入で日本国がどの様な経済状況に至ったのかを説明しましょう。
1930年の農家は豊作に恵まれ、本来ならば文字通り豊かな生活が送れると思いきや、金本位制の導入により、国内には通貨が不足する状況にあり、且つ朝鮮や満州からの米の輸入によるコメのダブつきが米価の暴落に拍車をかけたのです。
所謂、豊作貧乏という状況でした。
この時の農家不況は昭和農業恐慌といわれているが、この恐慌が、後に日本国が戦争へと踏み出す要因を生み出したのである。
このコメのダブつきを回避する為、半島から本土へのコメの輸入が一時的に禁止されたのです。
金本位制は、昭和恐慌を生み出したが、昭和恐慌からの脱却の命運をかけ、白羽の矢が立ったのが先にも記載した高橋是清である。
日本崩壊の寸前で、高橋是清が再度現れ、日本経済を立て直してしまったのです。
つまり、左翼にとって高橋是清は、正に目の上のタンコブだった事を頭に置いておいて下さい。

この時に共産党が目を付けたのが東北地方(東北地方は)で、共産主義を根付かせる為にデフレ不況を意図的に起こし、国民の思想に共産思想を浸透させるのが狙いだったのです。
自らが保管するコミンテルンの資金価値を上昇させ、(デフレ下では、現金を有する者がそれを保管するだけで、その価値を増していくのです。つまり、60万円を箪笥貯金して置くだけでその価値が上がるのである)同時に、国民を苦しめることで、共産思想の浸透を謀り、その支持を拡大させる。
これが、当時国内で支持基盤が無い左翼の初期段階での戦略だったのです。
 これは、関東大震災に於ける日本国政府の対応として、朝鮮への出資を抑える事無く、国内の財政縮小(デフレ誘導)による対応で国難に対処するとする政策への疑問を呈し、東北の住民が生活困難に陥った事を利用し、皇道派の多い東北出身者を天皇陛下に「暴徒」として制圧させ殺害し、この地方での皇室に対する不信感を植え付けることも同時に行っているのです。
更に、日本軍の中枢で統制派が主導権を握り、日本が戦争へと至る切っ掛けとなったのが、226事件である。
桜会は、十月事件後に解散しているんですが、この解散にも大きな疑義が生じているのです。
この解散に、あれっと思った方はいい感性を持っていますね。
これは、官僚を牛耳る為に設立した新人会が解散したことと、ある意味同じで、既に最終局面に入った事を意味していると同時に、解散することで批判の火の粉が飛び散らない様に前もって解散したのです。
その証拠に、あの226事件後、統制派が日本軍の中枢に潜り込むことにまんまと成功したのです。
このことは、天皇陛下が後に、1936年の226事件を起した皇道派を憎み、この事件を軍部支配のために利用していった統制派を批判されていたことでも理解出来るでしょう。
つまり、陛下は226事件の本当の黒幕(仕掛け人)を認識していたです。

 では、その事を頭に置き解析していきましょう。
 同会に所属していた多くの統制派(共産主義者)将校が226事件勃発後、陸軍内で台頭していったのである。
つまり、226事件とは、共産主義者が日本軍の中枢で発言力を得る為の自作自演だったのです。
この事件後、従来の反ソ路線を廃して反英反中へと転換させたことも、ソ連の意図が関与した考えると関東軍が駐屯している戦略的意義を蔑ろにして、対ソから対中へと方針転換させた近衛内閣(朝食会や昭和会という知識人(共和国主義者)による政策意見交換の場を設け、日本国崩壊の謀議を繰り返していた)の意図が理解できるだろう。
それを裏付けるように、この政策の根拠となる決定が、1928年の第6回コミンテルン会議でスターリンが指示した「敗戦革命」なのです。
敗戦革命とは、帝国軍同士(日本軍と国民党軍)を戦争に追い込み国家体制を弱体化させた後、共産革命を起こし共産圏を拡大させることをいう。
つまり、国民を戦争という大義名分により殺害し、且つ、尊皇派への国民の支持を軽薄化した後、革命を実行する事が敗戦革命と並行して実行されたのが、大東亜戦争なのです。
 桜会は政党内閣を廃して軍事政権を樹立する国家改造構想を抱いていました。
これは、統制派のリーダーである陸軍省軍務課長の永田鉄山が1931年に書いた「皇政維新法案大綱」に繋がっているのです。
コミンテルンが描いたシナリオは、あくまでも戦争は天皇を元帥とする帝国主義、富国強兵の国策が至らしめたものであり、日本国政府はその動きを抑えきることが出来なかったと主張する為の軍人主体での戦争であるとする工作であって、国民は日本軍の被害者(左翼勢力はこの方針を悪用し、天皇陛下に戦争の責任を負わせ、反君が代、反日の丸に結び付けて、国体の解体を謀り、実行している)であるとする為のカモフラージュを行っているのです。
彼らは1930年9月にコミンテルンの指示で「桜会」を結成し、参謀本部や陸軍省の中佐以下の中堅将校100余名を巻き込み、その一部の共産主義者が主導した巧妙な茶番劇だったのです。




桜会は大川周明らと結託して、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画しますが、いずれも未遂(これらの事件は、あくまでも事件を起こそうとしたとする既成事実として計画されたものであり、統制派の真の狙いは、226事件で日本軍の中枢を制圧する事なのです)に終わっている。
この事で、結果的に軍部の独走を助けたとされているが、この未遂事件、未遂の為の未遂では無かったのか。
未遂に終わらせ、事をあからさまにする事により桜会を解散させ、226事件での責任を皇道派に負わせ、統制派にその責が及ばないよう謀ったのではないかという疑義が色濃く残るのです。
この絡繰りに、国民は、まんまと騙されたのではないだろうか。
つまり、十月事件を失敗に至らせた後、桜会を解散させた上で、226事件を起こさせて皇道派の一掃を謀り、コミンテルンの手先である統制派が日本軍の中枢にまんまと潜り込んだのである。
改めて考えてみると、この共産主義者の工作の周到さは、現在の左翼が、戦後、活発化した学生運動で過激な行動に走る若者たちが共産主義への熱が冷め、活動の鎮静化が進み、政治運動に一定の距離感を保ち始めた感情が国民の間に漂っている事を利用し、似非街宣右翼を用い、国民に右翼(日の丸)への嫌悪感を植え付けることにまんまと成功したのです。
考えてみれば、学生運動も似非右翼も共に、左翼の活動なのです。
この事に、国民は再び騙されようとしているのです。
以上の経過を辿り、左翼は現在、国家機関の中枢を占め、再び、政策の主導を成しているという事実が、戦前の左翼の政界、軍部中枢への浸透手法とダブってしまい、とても怖いですね。

少し飛んでしまいましたので、桜会へとまた戻ります。

桜会の人員ポストは
■陸軍省 9名
■参謀本部 38名
■教育総監部 2名
■陸軍大学校(在籍中) 15名
■憲兵司令部 7名
■そのほか 25名

となっている。
以後、桜会のおおまかな流れを記載してみる。

参謀本部にこれだけの人員がいるのはすごいことである。
桜会はほとんど参謀本部所属の陸大卒少壮将校(中堅幕僚)によって構成されていたと見ていいだろう。
ついでに、桜会の者で陸大を出ていない、陸士あがりの課員が2人いる。秋草大尉と天野中尉である。
この二人は陸大を出ていないのに参謀本部に配属されたということから相当な実力をもっていたようである。

例えば秋草大尉は、近衛歩兵第一連隊から東京外語へ委託学生として覇権され、ロシア語を修得し、かなりロシア語に堪能であったと定評があった。
また、昭和13年7月に創設された後方勤務要員養成所の創始者でもある。
後方勤務要員養成所、後の陸軍中野学校(通常東部第三三部隊)のことである。

また桜会には有名な人間が数多く在籍している。
名を挙げてみれば、
牟田口廉也、根本博、河辺虎四郎、土橋勇逸、武藤章、富永恭次、長勇、片倉衷、辻政信・・・
などは少し陸軍のことを知っている方なら「ああ、あの人か」とすぐ思いつくだろう。

さらに余談であるが、陸士卒と陸大卒の大きな相違は陸士卒が退役までずっと隊付将校として軍隊の骨幹を形成するのに対し、陸大卒にとっての隊付は全然違う。
一定年月隊付勤務をすることは単に出世のためのワンステップであり、将官に昇進直前になって隊付期間の不足を理由に予備役編入された例もあるくらいだ。

大抵の陸大卒業生は原隊へ復帰して中隊長等の職務について1,2年後、中央三官衛の各課に配属されるのが普通であった。一部の者は陸士や歩兵学校の教官、軍、師団の参謀に派遣されることもあった。
これは卒業序列の上のものからいいとこへ行けると解していいだろう。
(また恩賜組には権利みたいものがあってこれを「株」と称していた。)
ついでに、陸士の教官は陸士出が担当することになっていて、昭和9年8月に辻政信(当時は大尉)が陸士の中隊長になったのは異例のことであった。
これは彼が強く希望して実現したもので、辻はこの職務において士官学校事件に関与することとなる。もとよりこれを狙っていたのは間違いあるまい。
恩賜の軍刀を授かる優秀な成績で出た者には先に述べたように海外派遣か、作戦関係の部署に配属された。
話を戻して・・・。

会の目的は端的に言うと
「国家改造を以て終局の目的となしこれがため、要すれば武力を行使するを辞せず」
ということであり、3月事件、10月事件に暗躍した。

3月事件とは、昭和6年3月、桜会の橋本、長ら中堅将校が立案して、それを小磯国昭軍務局長、建川美次(参謀本部第二部長)、重藤千秋(参謀本部支那課長)らが支援した。密かにではあるが陸軍次官杉山元、参謀次長二宮治重も支援者であった。
さらに大川周名、徳川義親、清水行之助ら民間人に亀井貫一朗、赤松克麿の無産政党までもが加担していた。

シナリオは、今開催中の議会(第59回帝国議会)を大川・亀井等が一万人の大衆を動員して議事堂を包囲し、鎮圧の名目で軍隊を出動させる。この混乱に乗じて宇垣陸相を担ぎ出して軍部独裁政権による国家改造を断行しようとするものであった。
が、結局この計画は宇垣・小磯らの動揺→変心で中止となった。

実はこのシナリオの土台となったのは永田鉄山が計画案を立案し、それを橋本らが編集し直したという話もある。

事件に対する首謀者の処罰もなくウヤムヤに終わったおかげで、満州事変の当事者にある程度の安心感を覚え、10月事件へ、青年将校は226事件へと波及することになろうとはこの時、陸軍中央は想像もしてなかった・・・。
3月事件については陸相宇垣も一枚噛んでいたし、彼らを取り締まるべき立場である軍務局長らでさえ加担していたのだから証拠隠滅も可能であった。
ちなみに宇垣らが支援したのはただ若い連中から取り残されるのを恐れた為であったという。折しも下克上の空気が蔓延していたのが一因であろう。

のちに内大臣木戸幸一は東京裁判において
「3月事件がその後もろもろの事件の元凶である」と指摘した。
さすがに鋭い洞察力を持っている。
だてに内大臣という要職を任されてはいないのだ。


同年10月には、同じ桜会メンバーで今度は9月に石原・板垣らが中心となって勃発させた満州事変を成功させるための国内改造を狙い、当時青年将校らから大人気であった荒木貞夫教育総本部長を首班とする革新政権を樹立せんとした事件、10月事件が起こった。
橋本欣五郎はこれを「錦旗革命」と称した。
さて事件は起こったというよりも今回もまた、未遂に終わったのである。
これは荒木に担がれる気がなく、内部分裂、脱落なので結局断念せざるを得なくなったというものである。
今回の首謀者達には転属・訓告など軽い処分を受けたが、今回もまた上層部には波及しなかった。


しかし桜会はこの事件をもって一応解散となり、派閥的には少数派である清軍派に転落していった。
清軍派は皇道派を嫌い、後の皇道派と統制派の対立の中で統制派に加わっている。
さらに付け加えると、石原らの満州派が統制派に加わったものを「新統制派」と呼称する場合があるので気を付けておきたい。


軍人の政治介入に関して、宇垣は戦後回想録の中で、自分自身は三月事件に関わりなかったと述べている。
しかし、彼が無関係であろうはずもなく、桜会に便乗する形で内閣首班を考えていたであろうことは否定できない。
そういえば、陸相を通じる以外の軍人の政治関与は軍人勅諭でも
「世論に惑わず政治に拘わらず・・・」
と禁じられてきたところ、昭和6年1月に陸相宇垣自らが
「国防は政治に優先する」
と述べて、軍人の政治関与を是認しているではないか。

ともかくも宇垣の人望はこの三月事件で完全に潰えたと言える。
後の昭和12年に広田内閣の後を受けて組閣の大命が彼に下ったが、陸相のなり手が得られず、流産内閣となった。
これは宇垣軍縮の復讐というよりも、三月事件での心変わりへの反感によるものと言えるだろう。

三月事件のあと、宇垣は浜口内閣の余命が短いことを確信し、サッサと伊豆長岡の旅館に引きこもった。いずれ自分にお鉢が回ってくるだろうから、それまでのんびりしようと思ってたのであろうが、4月14日に第二次若槻内閣が成立し、6月になってようやく彼に回ってきたのは予備役編入と島流しとも言える朝鮮総督のポストだった・・・・。

荒木貞夫は、1918年のシベリア出兵当時、シベリア派遣軍参謀で、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。
そのため荒木は反ソ・反共の右派的体質を身につけただけでなく、ソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者でしたが、226事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線から退く結果に至ってしまった。


橋本欣五郎は、トルコ公使館付武官でしたが、この時、ムスタファ・ケマル・パシャの革命思想に接して、その後の趣味は「革命」。
帰国後、参謀本部ロシア班長となり、1930年に参謀本部の将校らと密かに桜会を結成。
三月事件・十月事件を計画するも失敗に終わり、桜会は解散させられる(しかし当の本人は軽い刑で済んでいる。当時日本最強の陸軍部隊であった関東軍にいた石原が陸軍中央部に圧力をかけたためといわれている)。
戦後の東京裁判において、A級戦犯として起訴されたのは、連合国側が三月事件・十月事件を「侵略計画の発端」とした事が最大の要因であると推測されている(木戸幸一も同様の見解を示していた)。

また、226事件の際には、自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、予備役へ回される事となる。

その後、日中戦争の勃発に伴い、再び召集されたが、南京攻略戦の際に日本海軍の攻撃機に南京から脱出する船舶を攻撃するようにと命令し、アメリカの砲艦パネー号(正しくはパナイ号)を撃沈し死傷者を出し、さらにイギリス砲艦レディバード号にも被害を与えた(レディバード号事件)という責任を取って陸軍砲兵大佐で退役した。

同年大日本青年党(のち大日本赤誠会に改称)を組織しファシズム運動を展開、近衛文麿首相が掲げる新体制運動にも積極的に協力した。
1942年の翼賛選挙で衆議院議員に当選し、翼賛政治会総務に就任した。



日本ファシズムを規定するならば、


A1.家族主義的傾向
A2.農本主義思想の優位
A3.アジア民族解放の理念
A4.反資本主義的傾向


というイデオロギーを含んだ、


B1.経済恐慌
B2.対外危機の切迫


による、


C.小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、自作農上層、学校教員、村役場の吏員、僧侶、神官


を社会的担い手にした運動である。

作者が書いているとおり、丸山眞男『現代政治の思想と行動』(未来社)所収の論文に依拠した規定ではあるが、本書の基本的視座は、桜会クーデター計画に端を発する陸軍内軍閥抗争の開始から、皇道派および統制派をA2「農本主義思想の優位」A4「反資本主義的傾向」に焦点を絞って分析するところだろう。

いわば本書は陸軍軍閥抗争史であり、社会的担い手や対外状況の分析、軍外部の民間右翼はとりあえず分析対象から捨象されている。

大川周明、北一輝、井上日召と軍の関係は多少言及されているが、権藤成卿や橘孝三郎、田中智学や細木和子の夫であった安岡正篤などについては残念ながらほとんど記述がない。もちろん彼ら民間右翼の軍への影響は非常に希薄であっただろうが、社会的担い手の問題とともに論じて欲しかった。

ちなみに本書には、小さい活字二段組で150ページにわたる一次資料が収録されているのだが、みすず書房『現代史資料4 国家主義運動1』『現代史資料5 国家主義運動2』と重複するものが3点しかなく、貴重なものといえる。

概して派手さはないが、陸軍内部の抗争を通史的に概観するのに便利な1冊である。なお復刻版『軍ファシズム運動史』が原書房から出ているが、こちらも絶版である。




付録資料目次

皇政維新法案大綱(昭和6年9月)
昭和7年1月○○大佐手記(いわゆる田中清手記)
桜会趣意書および桜会人名録
荒木陸相の斎藤総理への書簡および緊急施策基礎案(昭和9年1月)
政治的非常時変勃発ニ処スル対策要綱(昭和9年1月5日改訂)
国防の本義と其教化の提唱(昭和9年10月1日)
麻生久「陸軍のパンフレツトに就て」(昭和9年10月)
士官学校事件計画の概要(昭和9年11月)
軍政権樹立と大陰謀発覚(昭和9年末)
全皇軍青年将校に檄す(昭和10年2月)
昭和の安政大獄(昭和10年6月)
総監第一回長官会議開陳ノモノ(昭和10年7月12日)
教育総監更迭事情要点(昭和10年7月)
軍閥重臣閥の大逆不逞(昭和10年7月)
陸海軍青年将校に檄す(昭和10年8月)
永田最後の意見具申原稿(昭和10年8月11日)
陸軍当面の非常時政策(昭和10年9月18日)
戒厳司令部職員表(昭和11年2月27日)
二・二六事件日誌(編者作成)
内閣更迭の場合陸軍大臣の入閣条件として要求すべき事項(昭和12年1月23日参謀本部)
軍務課政変日誌(昭和12年1月)
林内閣の政綱案(昭和12年1月)
林内閣成立の経緯(浅原健三日記 昭和12年2月)
重要産業五年計画要綱(昭和12年5月29日)






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ベノナ・ノート

2012.02.29(10:09)

米陸軍の信号情報サービス、国家安全保障局への前駆体が秘密プログラム始めた。
1943 年 2 月以降コードネームは、 VENONA。
この小さなプログラムの使命を調べ、ソ連外交通信を悪用するだったが、プログラムを開始した後は、メッセージ トラフィックのスパイ活動も含まれています。

ほぼ 2 年前にアメリカの cryptologists KGB の暗号化を解除することができましたが、プログラムが 1980 年にキャンセルされたまでこれら取引を通じて得た情報米国リーダーシップ 、ソ連の意図と反逆活動の政府内スタッフに情報を提供した。

VENONA ファイルはユリウス (自由という名前のコード) とローゼンバーグの公開の最も有名なされ、ソ連のスパイ 、リングとの関与の疑う余地のない証拠を暗号解明により証明することにある。

最初の六つのパブリック リリース翻訳 VENONA メッセージの 1995 年 7 月になされ、米国の原爆研究とマンハッタンのプロジェクトに関する情報を得るために、ソビエトの取り組みについて 49 メッセージが含まれています。
その他のリリースにわたって、約 3,000 の VENONA 翻訳のすべて公表されました。

ウィリアム P. ・ クロウェル氏によって「Venona の思い出」

注: ウィリアム P. ・ クロウェル氏、VENONA プロジェクト次長の分類の解除は、CIA 本部で 1995 年 7 月 11 日に発表されたときに NSA での発言です。
クロウェル氏は、 NSAを1997 年 9 月 12 日に引退しました。

NSA、入社直後後、早い 1960 年に私は小さいが、幸運な従業員のグループのフランク ローレット、第二次世界大戦中には成功していた著名な NSA の cryptologists の 1 つを会議に招待代理店のだった。
1 時間以上フランク物語について、悪用コードと暗号の戦争中にくれた。
彼はどのようにこれらの成功米国の軍事指導者とそのコマンド勝利の重要な戦い力助けたについて話を聞いたし、戦略的な選択肢を作る。
しかし、彼は非常に暗号任意の戦いに勝ったことを主張しないように気を付けていた。
違い---を作ることができる情報を提供し、情報を使用して違いを確認する間の区別-まだ、重要なものと確かに成功の解読コードと VENONA として知られている暗号を実現した結果に適用されます。

12 年後 VENONA プロジェクトに参加した当初は、NSAの部門マネージャーその任務に当たった。
非常に短い時間で VENONA、絶対に魅惑的な物語、個人的な決定のと cryptanalysts の小さなグループの献身に感謝しようと思います。
それは、また、見事知的解読努力だった。
最後に、VENONA 顕著な省庁間協力のモデルとなった。

私もかなり歴史的な瞬間の話だったし、与えられた責任、必要ソースと関連のメソッドを保護するために減少すると、いつか、それ公開されるだろうことを実感していました。
時間が来ている今、今日、我々以上の最初を与える 2200 VENONA 翻訳は、最終的に歴史家に判断させる。
しかし、このリリースは、最も適切に我々は作業を行い、特別な人々を認識することだと思います。

ソ連 KGB、GRU のトラフィックを攻撃する努力の話 2 月とき若い女性、ミス遺伝子・ グラビール、整理、特性評価、および暗号化されたソ連外交メッセージの何千もの分析に割り当てられた。
1943 年に始めた。10 年以下を通じてほぼアナリスト、断固たる決意の努力によってはゆっくりと、家族の非常に洗練された、二重暗号化の暗号化システムに対して前進をしました。
苦労してまで解読した、最も挑戦的なシステムの 1 つから単語または一度に2 つの情報を抽出しました。

最初と最も重要なブレークスルー VENONA 暗号に対しても、最も基本的なコンピューターに実行させた。
 または他の高度なツールは、我々は現在に於いて、普通に使用さてるまでになっています。



1942年-46年、VENONA プロジェクトの下で最終的に読み取られたソビエトのトラフィックをスパンがそれを悪用する努力の数十年を続けた。
これに時だけ 1 つまたは 2 つの単語には強制的にコードをこじ開けていた苦痛が襲い、困難なプロセスに至らせました。
各新しい回復、真珠のカキを見つけるに似た高揚感を付属しました。しかし、そのコード グループが存在したし、それをされた場合は、[拡大のコンテキスト チェック手がかり他未回復のコード グループに提供されるかどうかを参照してくださいに精査かどうか、表示する情報を確認する各メッセージをいた各も更新作業を主導の回復。同様に、防諜情報の解読をベースに渡されるとき、FBI と FBI のリードを調査、新しい情報は時々、コードに新しい区切りを有効に開発されました。[プロセスすべてを再度始めるでしょう。

可能性のまま限り VENONA の防諜情報を開発する可能性があります仕事を続けている人々 が新しいエージェントまたはまだはアクティブにスパイ活動を明らかにするかもしれない。それは、もはや期待するは妥当であったという 1942年-45 でまだ生きて、スパイの役割でアクティブなある場合 VENONA 暗号を破る継続する継続的な努力が終了しました。

第二次世界大戦の初期の頃から、アーリントン・ホールは才能豊かな言語学者のチームとするには、ドイツ語、日本語のコードに対して、その後 VENONA プロジェクト暗号の最高の知的口径の組み立て解読していく、これらの華麗な専用の bookbreaker は、メレディスは 6 または 7 つの言語で卓越した資格情報を付属させ人来た学士号と修士ハーバード大学からフランス語の知識、法律の学位コロンビア大学からスラブ研究の第 1 の LT フェルディ ナント Coudert のような VENONA システムに対しての最初、本当に重要なブレークスルーのいくつかのドナーのような言語学者だった。
ドイツ語、ロシア語、セルビア語、ブルガリア語、日本語 - と CAPT ウィリアム ・卒業・ スミス、Coudert 人、フランス語、ブルトン語を知っていたし、は、有名なコロンビア大学でエディターをされていたのハーバード大学からの現代のような。含まれて it 暗号ジュヌビエーブ ファインスタイン上院議員、遺伝子・ グラビール、セシル ・ フィリップス、博士リチャード Leibler のようないくつかの名前には。彼らとその同僚 VENONA パズルのさまざまな側面に驚異的なしかしハード ウォン成功を負担する場合は、恐ろしい知的火力をもたらした。

前述のように、VENONA 前例のない省庁間の協力によっても特徴付けられました。第一に、インテリジェンスと法律の連携施行コミュニティだった。この協力ウェス レイノルズ、FBI の窓口にアーリントン ホール、始まったし、閉じる、協調努力 VENONA への FBI の直接リンクになったボブ Lamphere の代表です。これら協調関係より初期の頃には相乗効果の明確な例はありません。VENONA にヒューミント コレクターとの連携も含まれているし、防諜起訴国際インテリジェンス パートナーをリードします。

VENONA 暗号-については読むこと不可能であった必要があります。彼らの番号を文字、単語、フレーズが同一視されたコード本です。だからコード店員はテキスト形式のメッセージを取るし、コードブックから番号を使用して、メッセージのエンコードします。これは、コードの本が使用された期間に応じて、重要な課題自体を提示しているでしょう。ただし、メッセージには 1 つの使用によって変更、他の言葉で二重暗号化、でした時間パッド。1 つの使用時間パッドが効果的にランダムにコードと、判読不可能します。VENONA 成功への鍵は、ミスの建設と 1 時間パッド-のみブルートフォース メッセージ トラフィックの分析を発見したという事実を使用されたことだった。

十分なブレークスルーが発生した後は、いくつかの同様のシステムで、ソ連外交のトラフィックが暗号化された貿易 KGB、GRU のスパイトラフィック外交にも含まれているとメッセージしたことは解読によって明らかとなった。
徐々 に大規模なソ連スパイの暗号解読の真実は、 VENONA チームの作業から公開され始めた。

分類と VENONA 翻訳をリリースする際は、個人のプライバシーの権利の適切な保護に最大限の配慮を与えた。
私たちの願い私たちの責任 VENONA 翻訳---さらに解釈するしかない彼ら自身の話をし、歴史を理解して、コンテキストに入れてくれるされます。
しかし、今日、私たちの特権は、努力と犠牲 VENONA チーム メンバーの公の最初の時間を認識することも。
ほとんど諜報員の成功について話をする機会を得ます。
VENONA プロジェクトでは、最高の 1 つあり、物語の一部を持っていたことが誇り。

ベノナ・ノートの詳細は、下記のサイトにて掲載してあります。


http://www.nsa.gov/public_info/declass/venona/dated.shtml

会沢 正志斎

2012.02.19(17:48)


会沢正志斎 アイザワ,セイシサイ 天明二-文久三(1782-1863) 水戸藩士。
郡奉行下属の小吏会沢市五郎の子。
通称は恒蔵、名は安、字は伯民、正志斎と号した。
幼くして学問のほまれ高く、寛政三年(1791)藤田幽谷の門に学んでその高弟となる。
寛政3年(1791年)、藤田幽谷の青藍舎へ入門する。享和元年(1801年)、20歳のときには国防問題に関する『千島異聞』を著す。
享和3年(1803年)に藩校の彰考館に入門。
文化4年(1807年)には徳川斉昭に近侍する。
文政8年(1825年)には遭難したイギリス船員と会見し、海外情報を聞き記した『新論』を表すが、内容が過激であるという理由で発禁処分となる。

文政10年(1827年)には幽谷が死去し、彰考館の総裁となる。
文政12年(1829年)、斉昭を水戸藩主に擁立する運動に参加し、斉昭から取り立てられた。
藤田東湖や武田耕雲斎らと共に藩政改革を補佐し、郡奉行などを歴任している。
天保11年(1840年)には弘道館の初代教授頭取に任じられ水戸学発展に貢献した。

弘化2年(1845年)、仏教界が政治に介入することを苦々しく思って斉昭に仏教徒を弾圧することを進言し、これが原因で斉昭は幕府から隠居を命じられる。
このとき、正志斎も蟄居を命じられた。
嘉永2年(1849年)に斉昭が復帰すると同時に復帰した。

安政5年(1858年)、幕府の条約締結に関して、朝廷から水戸藩に戊午の密勅が下る。
会沢は密勅返納を主張し、藩内の尊皇攘夷派と対立する。
斉昭が安政の大獄で永蟄居処分となると藩内は分裂し、正志斎はその両派の収拾に努めた。
文久2年(1862年)には一橋慶喜(徳川慶喜)に対して、開国論を説いた『時務策』を提出する。
82歳で死去。

正志斎は神道と水戸学を合わせて大義名分論を唱えた人物として有名であるが、彼は著作や尊皇攘夷運動を通じて長州藩の吉田松陰らに影響を与えた精神的指導者でもあった。

新論
http://www.1-em.net/sampo/sinron/sinron/

時務策

 国家厳制アリテ外国ノ往来ヲ拒絶シ給フハ、守国ノ要務ナルコト勿論ナレドモ、今日ニ至テハ、マタ古今時勢ノ変ヲ達観セザルコトヲ得ザルモノアリ。
東照宮ノ御時、西洋ノ邪教人心ニ大害アルコトヲ深察シ給ヒ、厳禁ヲ設ケ邪徒ヲ尽(ことごと)ク殺戮セラレシガ、其(その)根柢未(いま)ダ絶(たえ)ズシテ、寛永ノ変起ルニ及(および)テ外国ヲ拒絶シ給フコト、号令厳粛ニシテ今ニ至ルマデ国家ノ厳制タリ。
然(しかる)ニ近時、外夷シバシバ来テ通信ヲ請フ。
幕府ニテモ通信ノ事ニハ其弊ナシトセラルヽニモアルベカラザレドモ、時勢ヲ斟酌アリテ権宜(けんぎ)ノ道ヲ用(もちい)給ヒシナルベシ。
天下ヲ治(おさむ)ルニハ時ヲ知ルヲ要ス。
 東照宮ノ御時ハ、天下ノ勢強盛ニシテ外国ハ甚(はなはだしくは)張大ナラズ。
邪教ノ徒モ人心ヲ蠱惑(こわく)スルノミニシテ、未ダ叛逆ノ甚キニ至ラズ、故ニ外国ヲ尽(ことごと)ク拒絶スルニ至ラズ、其中ニモ通信セラレシ国々モアリシナリ。
島原ノ賊起リテハ、外国ヨリ来リ窺(うかが)フコト天下ノ大害ナルヲ洞察アリテ、東照宮ノ法制ヨリ一段防禁ヲ増加アリテ、通信ヲ絶チ外国ヲ尽ク拒絶シ給フ。
是(これ)時措(じそ)ノ宜(よろし)キヲ得テ変通ノ道ニ叶(かない)シナルベシ。
今時(こんじ)ノ如キハ、外国甚ダ張大ニシテ、万国尽ク合従(がっしょう)シテ皆同盟トナリ、譬(たとえ)バ春秋(しゅんじゅう)ノ時ニ、斉桓(せいかん)・晋文(しんぶん)盟主トナリ、諸侯ヲ合セテ好(よしみ)ヲ通ジ、若シ諸侯ノ中ニ会盟ニ与(あずか)ラザルモノアレバ、諸侯兵ヲ合セテ是(これ)ヲ伐ツ、是ニヨリテ一日モ孤立シテ国ヲ保ツコトアタハズ、今外国ノ勢モマタカクノ如シ。
是ト好ヲ結バザル時ハ、外国ヲ尽ク敵ニ引受テ、其間ニ孤立ハナリ難キ勢ナレバ、寛永ノ時トハ形勢一変シテ、今時外国ト通好ハ已(や)ムコトヲ得ザル勢ナルベシ。
サレドモ通好シテ外患ナキ時ハ、人心怠惰ヲ生ジ兵力弱ク外侮ヲ受テ、彼ガ心ノ儘ニイカナル事ヲ要求センモ測リ難シ。
富国強兵ノ政行レテ士気ヲ磨励シ、彼ヨリ和ヲ破ルコトアラバ、速(すみやか)ニ打破ルベシトノ気焔アラバ、彼ガ虚喝ヲ畏レズ、天下衰弱ニ至ラズシテ不虞ノ変ニ応ズベシ。
又通好スル時ハ邪教ノ入易(いりやす)キ患(うれい)アリ。
サレドモ寛永ノ時ハ、邪教ノ毒久(ひさし)ク人心ニ漸漬(ぜんし)シテ天下ニ滋蔓(じまん)シタレバ、是ヲ禁ジ難シ。
今ハ、邪教ノ邪ナルコトハ、天下ノ人不レ言(いわず)シテ是ヲ知ル。
寛永ニ比スレバ禁ジ易キ勢ナキニ非ズ。
邪教未ダ滋蔓セザルニ及デ、微(び)ヲ絶チ漸(ぜん)ヲ杜(ふさ)グコト、尤(もっとも)急務ナルベシ。
久ク持論スル所アレドモ今此(ここ)ニ贅(ぜい)セズ。
 血気ノ小壮ハ、大敵ヲ引受ナバ打破(うちやぶり)テ神州ノ武勇ヲ万国ニ輝サンナドヽモイフベケレドモ、兵法モ、彼ヲ知リ我ヲ知ルニ非レバ戦勝ヲ制シ難シ。
今外国ノ火器、近時ニ至テ益(ますます)巧(たくみ)ヲ極(きわめ)タレバ、短兵(たんぺい)長兵ヲ論ゼズ、勝敗ハ兵ヲ用ルモノヽ巧拙ニヨルベシ。
是(これ)武勇アリトイヘドモ必勝ヲ期シ難キ一ツナリ。
 神州ノ武勇ハ勿論ナレドモ、太平久ク、勇士モ往昔ヨリハ少ク、身体軟弱ニシテ肥甘軽煖(ひかんけいだん)ニ習ヒ、寒暑風雨ニ堪ヘズ、戦場ノ坐作進退ニ習ハズ、将帥(しょうすい)タルモノ多クハ世禄(せろく)ノ※(糸+丸)袴(がんこ)子弟ニシテ兵ヲ知ラズ、兵法ヲ論ズルモノハ陳跡(ちんせき)花法(かほう)ニ固滞シテ実用ニ疎ク、俄ニ戦場ニ臨(のぞみ)テハ、山村ノ民ヲシテ舟楫(しゅうしゅう)ヲ操(あやつ)ラシメンニ、船中ノ働キモナシ得ズシテ空(むなし)ク手ヲ束(つかぬ)ルガ如ク、倉皇失措(そうこうしっそ)スルノミナルベシ。
外国ハ鄙陋(ひろう)ノ蛮夷ナリトイヘドモ、百戦ノ実地ニ試(こころ)ミ、用兵ノ術ニ鍛練シ、火器精巧ニシテ数百歩ノ外ニ折衝ス。
我ニ奇計妙策ノヨク是ニ当ルモノ無(なか)ランニハ、是(これ)心ハ勇ナリトモ必勝ヲ期シ難キノ二ナリ。
 民命ハ聖天子ノ尤(もっとも)重(おもん)ジ給フ所ナリ。
然ルニ必勝ノ成算モナク、一旦憤激ノ故ヲ以テ民命ヲ一搏(いっぱく)ニ投ジ、元元(げんげん)ノ塗炭ヲ顧(かえりみ)ザルコトハ、宸衷(しんちゅう)ニ於テ忍バセ給ハザランカト、恐多クモ伏察シ奉ル也。
サレバ少壮推鋒(すいほう:摧鋒さいほうノ誤リカ)ノ徒、一己ノ私忿(しふん)ヲ以テ、臣下ノ身トシテ聖明ヲ要(よう)シ、且誣(しい)テ不仁ノ道ニ陥レ奉ランハ、其人ノ心ニモ自ラ畏縮スベキコトナラズヤ。
若シ一朝兵結ビ禍連(つらな)リテ解(とけ)ザル時ハ、兵ノ勝敗モトヨリ意外ニ出(いづ)ルコトニシテ、千古ノ覆轍モ少カラズ。
万一将帥誤テ喪敗スルコトモアランニ、其時ニ至テ、秦檜(しんかい)ノ如キ奸悪ニハアラズトモ、一時ノ敗ニ懲リテ和ヲ結(むすば)ントセバ、降(こう)ヲ請フガ如キ姿ニナリ、西洋ノ習ニテ軍費ノ償(しょう)ヲ責取ラレ、国力給シ難キコトモ料(はか)リ難ク、第一、神州ハ万国ヨリモ帝国ト号シテ古ヨリ尊(たっとば)レシヲ、後日ニ及デ万一尊号ニ瑕疵ヲ生ズル事ニモ至ラバ、国体ヲ辱(はずかしむ)ルコトコレヨリ甚シキハナカルベシ。
遠慮ナケレバ近憂アリトモ云ヘバ、深ク思ハザルベケンヤ。
 或(あるひと)ノ曰ク、将帥誤テ喪敗ストモ国ノ存亡モ論ズルニ足ラズ、決シテ和スルコトアルベカラズ。
 答テ曰ク、国ノ存亡ヲ謀(はか)ルハ上ニ在ル人ノ任ナリ。
下トシテハ、事ノ是非ヲバ論ズルトモ、謀猷(ぼうゆう)ヲ己(おの)ガママニ決スルコトアタハズ。
前文ノ意ハ、在位ノ人、若シ兵敗レテ和ヲ議セントスルニハ、カクノ如キ患アレバ、兵ヲ用(もちい)ンニモ初ヨリ後患ヲ慮(おもんぱかり)テ持重スベキコトヲ云(いえ)ルナリ。
喪敗セバ和ヲ請フベシト云ニハアラズ。
 或(あるひと)又曰ク、国家ノ法制ヲ失(うしない)テ和好ヲ通ズルハ神州ノ恥ナレバ、死ヲ以テ其制ヲ守ルベシ。
文永・弘安ノ如キモ、蒙古ノ使ヲ斬リ、天下必死ニ決シテ遂ニ是ヲ撃尽(げきじん)セリ。
宋ノ岳飛(がくひ)等ノ如キモ、心ヲ戦ニ決シ誓(ちかっ)テ金虜(きんりょ)ヲ破リ、国恥ヲ雪(きよ)メントス。
是等ノ大義ニ当テハ、万民トイヘドモ生ヲ捨テ死ヲ効(いた)スベシ、民命ヲ顧ルニ遑(いとま)アラズ。
答テ曰ク、外国ヲ一切ニ拒絶トイフコト、寛永ノ良法トイヘドモ、其本(もと)ハ天朝ノ制ニモ非ズ、又東照宮ノ法ニモ非ズ、寛永中ニ時宜ヲ謀(はかり)テ設給ヒシ法ナレバ、後世マデ動(うごか)スベカラザル大法トハイヘドモ、宇内(うだい)ノ大勢一変シタル上ハ、已ムコトヲ得ズシテ時ニ因テ弛張アランコト、一概ニ非ナリトモ云難シ。
此一事ノミヲ守ラントシテ、国ノ存亡ヲ論ゼズ、其他ヲ顧ズ、偏(ひとえ)ニ固ク執リ守ラント云ハ、一偏(いっぺん)ノ論ナルベシ。
文永ノ時ハ、蒙古、其(その)強大ニ誇テ来リ寇(こう)スルノミニシテ、深患アルニアラズ。
サレバ是ヲ一時ニ摧(くじき)テ足レリ。
宋ノ金虜ハ宋国ヲ併呑(へいどん)セント欲ス。南侵ノ勢ヲ止メザレバ、宋ノ地尽(つく)ルコト有(あり)テ遂ニ滅亡ニ至ルベシ。
死力ヲ出(いだ)シテコレヲ撃チ、驕虜ヲ懲(こら)シテ国恥ヲ雪(きよ)ムルハ、其(その)国家ヲシテ夷虜ノ患ヲ免(まぬか)レシメ、民命ヲ保全スルノ義ニ当ルナリ。
当今ノ勢ハ、海外ノ万国皆和親通好スル中ニ、神州ノミ孤立シテ好ヲ通ゼザル時ハ、諸国ノ兵ヲ一国ニテ敵ニ受ケ、国力モ堪ヘ難キニ至ルベシ。
時勢ヲ料(はか)ラズシテ、寛永以前ノ政令ヲモ考ヘズ、其以後ノ時変ヲモ察セズシテハ、明識トハ云難カルベシ。
 小壯ノ論ハ、義ニ当テハ国家ノ存亡ハ論ズルニ足ラズ、唯其(その)義ヲ行フベシナドヽ唱(となう)ルモノモアランカ、天下ハ天下ノ天下ニシテ一人ノ天下ニアラズ、然ルニ臣下ノ身トシテ、天下ヲ一己ノ私物ノ如ク軽々シク是ヲ一搏ニ抛(なげうた)ントスルハ、臣子ノ心ト云ベカラズ。
況(いわん)ヤ天朝ハ天照皇大神以来皇統正(ただし)クマシマシテ、万国ノ中ニ比倫スベキ国アルコトナシ。
然(しから)バ国家ノ重キコト、他ノ国々ト同日ノ論ニ非ズ。
然ルヲ一己ノ心ノママニ進退シテ、天下ノ存亡ヲ論ゼズナドト、口吻(こうふん)ニ任セテ軽率ニ論ズベケンヤ。
民命ヲ論ゼズナドイフコトモ、大義ニ当(あたり)テハサルコトナキニモ非ズ。
当今ノ世モ、戦フベキ時ニ臨(のぞみ)テハ戦フテ当然ナレドモ、容易ニ戦ヲ好ムベキ時ニ非ルコト前ニ論ズルガ如シ。
戦フベキトキニ非シテ強(しい)テ戦テ人ヲ殺ントスルハ、不仁モ亦甚シ。
海内ノ百姓(ひゃくせい)皆升平ノ徳沢ヲ蒙リ、其生ヲ安(やすん)ジテ世ヲ渡ルハ、天下ノ至慶ナリ。
然(しかる)ヲ今、軽易ニ事ヲ生ジテコレヲ兵火ニ苦マシメントスルハ何ノ心ゾヤ。
今万民下ニ安堵シ、上ニハ幕府ノ廟議、富国強兵ノ政、大果断アリテ、天下ノ耳目一新ス。
コレヨリ富強ノ国トナリテ、神州ノ武威海外ニ輝(かがやか)ンコト、伏(ふし)テ庶幾(こいねが)フ所ナリ。九天ノ上ニハ聖天子好生ノ盛徳マシマセバ、必(かならず)仁暴ノ二ツヲ明察マシマシテ、万民ヲシテ兵燹(へいせん)ヲ免(まぬかれ)シメ、仁寿(じんじゅ)ノ域ニ※(路-各+齊)(のぼ)セ給ンカト、東陬(とうすう)ニ在トイヘドモ窃(ひそか)ニ瞻仰(せんぎょう)シ奉ルナリ。
 或人ノ一説ニ、客気ノ少年中ニハ、鸞輿(らんよ)ヲ大坂ニ移シ奉ントイフモノアリト聞及ブ。
大坂ハ浜海ノ地ナレバ、外虜海岸ヨリ直ニ行宮(あんぐう)ニ犯シ逼(せまら)ンモ測リ難ク、甚ダ危キ事ナレバ、※(手偏+晉)紳(しんしん)諸公モ、カクノ如キ疎率(そそつ)迂闊ナル拙謀ニハ必(かならず)従ハルベカラズ。
サレドモ筆ノ序(ついで)ニ、聞(きけ)ルマヽニコヽニ附論スルナリ。
 右ニ論ズル所モ、必シモ外国ヲ拒絶スベカラズトイフニアラズ。
万国ノ形勢ヲ審察シテ、拒絶シテ宜シキニ当ル時アラバ拒絶スベシ。
必シモ戦フベカラズトイフニアラズ。
孫子始計ノ如ク、廟算シテ彼ヲ知リ我ヲ知リ、我ニ算ヲ得ルコト多クバ戦フベシ。
算ナクシテ妄(みだり)ニ戦フベカラズ。
孔子モ、暴虎馮河(ぼうこひょうが)シテ死テ悔ナカランモノニハ与(くみ)シ給ハズ、事ニ臨テ懼レ、謀ヲ好(このみ)テ成サンモノニ与シ給フ。
サレバ万事ニ就テ、其難キヲ知テ後ニ行フベシ。
軽易無謀ニシテ暴虎馮河センハ、実ニ危キ事ニシテ、天下ノ大事ヲ敗(やぶ)ルニ至ルベシ。

時務策畢

通化事件

2012.02.15(13:10)

通化事件(つうかじけん)というのは、終戦の翌年である昭和21年2月3日に、かつての満州国通化省通化市で、日本人に対して一週間にわたって拷問と銃殺が行われ、あるいは凍死させられ、軍とは何のかかわりもない民間人2,000人(この人数はシナ共産党の発表であり、当然実数ではない。しかも当時、通化に居たはずの日本人の殆どが帰国していない事実がある)が殺害された事件です。

加害者は、支那共産党軍と朝鮮人民義勇軍(北朝鮮軍)南満支隊(李紅光支隊)、被害者は日本人です。

先ず、通化市とは、いまの北朝鮮と支那の国境付近にあった市です。

終戦時の通化は、中華民国(蒋介石・国民党)政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって治安が維持されていたのです。

通化は、他の地域に比べ治安が維持されていたとの情報(事件の検証で気づいた可能性として、通化の治安が維持されているという情報も、日本人民解放同盟の策略から報じられていたのではないか)から、満洲の奥地から日本に帰国しようとする多くの在留邦人や引き上げのために集まった日本人が17,000名が滞在していました。

男性は、満洲にソ連軍が侵攻したことで、戦闘に参加する為にソ連国境に移動して戦闘に参加し、命がけで女、子供や老人を逃して、その逃走時間を稼ぐために命を犠牲にして戦っていた。
生き残った者は、終戦により武装放棄をした上で、東京に行けるとロシア兵に騙され、シベリアやロシア各地に抑留されてった。
この抑留に関して、日本人民解放同盟の最高責任者である野坂参三は、シナからわざわざソ連を経由してソ連の高官と会い(その時渡された、ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙が見つかり、ソ連のシベリア抑留を肯定する内容と、抑留を引き延ばすよう求めた文面が公開され、その事実を認めた、既に用済みの野坂を日本共産党は除名した。)日本国内での共産革命実現の為、満州での事実を知る抑留された日本人を早期帰国させないようロシアに釘を刺しているのである。

ですから当時の通化にいた人達は、男性達が時間を稼ぎ戦っている間に、必死に逃げてきた女性や子供、老人たちだったのです。
しかし、彼女たちや老人たちは、無事に逃げおおせたわけではありませんでした。
落ちる途中で、支那人や朝鮮人たちによって、ようやく持ち出した手回り品やわずかばかりの財産全部を奪われ、暴行を受け、強姦に遭い、厳寒の地で衣類さえも奪われ、麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿で、ようやく一定の治安が保たれている筈の通化に辿り着いたのです。
通化では、在留邦人がそうした日本人避難民に衣服や住居を提供するなどしていたのだけれど、その通化市居留の日本人ですら、家屋や家財を強制的に接取されるなどしていました。
そこに昭和20年8月24日、ソ連軍の将校20人、兵士200人が進駐し、市内の竜泉ホテルに司令部を設置します。
この連中も非常に非人道的な集団でした。
日本人居留民の家屋に押し入り、財物や衣類を奪い、奪うモノがなくなると、日本人女性や少女を強姦し、抵抗する男性や老人は平気で暴力をふるい、殺害したのです。
武装解除されたとはいえ、通化市にあった日本軍憲兵隊は、ただ手をこまねいていたわけではありませんでした。
原憲兵准尉は、ソビエト兵が白昼の路上で日本女性を裸にして強姦していた現場に駆け付け、女性を救おうと制止してもソ連兵行為を止めないため、やむなく軍刀でその強姦兵を一刀のもとに斬り捨てました。
しかしその場で原准尉は、別のソビエト兵に射殺されたのです。
そしてこの事件以降、日本人は、憲兵といわず民間人といわず、日本刀も没収の対象となってしまいました。
完全に丸腰となり、身を守る術を持たなくなった日本人遺留民に対し、ソ連の軍司令部は、公然と日本人女性を慰安婦として供出せよと命じてきました。

ご存知の通り、朝鮮半島における従軍慰安婦などというのは、まったくのデタラメな捏造でしかありません。
朝鮮人の女衒たちが、同国人の女性を金銭で親から買い取り、独身男性が大量にいる日本軍兵舎横で売春宿を開いていたという話が慰安婦です。
売春が合法だった時代の話ですので、現代の物差しでは正確に判断できない事も当然ですが、考慮しなければならない。

日本兵は定め通り、金を払って彼女たちを買っていました。
ですから、日本兵の給料が将校クラスで25円、兵隊クラスで15円が相場だった時代に、彼女たち売春婦は、2年もすると3~5万円の貯金ができたのです。
当時のお金で3~5万円というのは、いまの貨幣価値にしたら3~5億円の大金です。
ですから一家のうちの女の子が日本人相手の売春婦になるというと、当時の朝鮮人は、一族をあげて大喜びした。

しかも日本は、彼女たちによって性病がまん延するのを防ぐために、公費を使って彼女たちの健康診断までしています。
ついでにいうと、当時荒稼ぎできた成功体験から、韓国ではいまでも売春がさかんです。
韓国で床屋に行くと、マッサージ嬢というのが出てくる。
売春婦です。
床屋でさえ、それが「サービス」になっている。
要するに彼らにとって、売春は成功体験になっている。

世界の常識は日本の常識とは異なります。

戦いに勝てば、負けた側の財産や女を略奪し放題にする。
それが兵士たちの稼ぎになるというのが当時の世界の常識です。

白ロシアという地名があります。
これはベラ・ルーシュの訳です。ベラというのは処女の意です。
つまり白ロシアというのは、処女のロシア(ルーシュ)という意味の地名です。

なぜそういう地名になったかというと、かつてモンゴルが攻めてきたとき、湿地帯である白ロシア地方は、馬での交通が不便だったために、その地を避けて通った。
そのため、そこの地は強姦被害に遭わなかったから、ベラ(処女)ロシア、と呼ばれるようになったのです。
負けた側に対しては、何をしても許される、それが当時の世界の常識でもあったわけです。

だから日本が朝鮮半島を侵略し、朝鮮人女性をセックス・スレイブ(性奴隷)にしたといわれると、多くの大陸系の人たちは、ウン、なるほど、と簡単に信じてしまう。
なぜなら、それが彼らの常識だからです。
しかし、それは彼らの常識であって、日本の常識ではない。
もし日本人がそういう非道を行う人種だったら、台湾でも、南洋諸島でも、東南アジアでも、かつての大日本帝国の版図になっていた地域には、必ず性奴隷がいて、現地人と日本人の混血孤児が大量に生まれていたはずです。
けれど、そういう話はまったくない。
なぜか。日本人は、そのような非道をしなかったからです。
話が少し脱線してしました。


ソ連の通化市への進駐軍は、日本人から武器を奪い取るだけでなく、女性の供出を求め、さらに日本人が外部の情報を得ることがないように、ラジオを全部没収します。

さらに支那共産党軍は、ソ連進駐軍の下請けとして日本軍の脱走兵狩りを行い、男性600人を検挙し吉林へ連行してしまいます。

つまり、通化市を、抵抗できない日本人の女、子供と老人ばかりにしたのです。
その後、ソ連軍が悪事の限りを尽くし撤退すると、通化の支配を委譲された支那共産党軍は、通化市の市役所の幹部職員全員を連行し、後に満州の地権を訴え、共産党の悪事が表面化することを避ける為に、旧満州人の役人全員を先行して殺害したのです。
つまり日本人社会の行政機能を機能停止状態(無政府状態)にしたのです。

さらに清算運動と称して、旧満州人たち通化市民の家宅に片端から侵入し、民族を問わず金品を掠奪したのです。
そして昭和21(1946)年9月22日には、支那共産党軍が、公式な連合国軍であった中華民国政府軍に攻撃を仕掛けて、通化市から駆逐してしまいます。

10月23日になると、支那共産党軍の一個師団が新たに中華民国政府軍に代わり、通化市に進駐してきました。
11月2日には、支那共産党軍劉東元司令が着任しています。
そして同日付けで、支那共産党軍は、17,000名を超える日本人遺留民に対して、収容能力5,000名以下しかない旧関東軍司令部へ「全員、移動せよ」と命令します。

移動した日本人遺留民に対し、支那共産党軍は、即日「遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)」の設立を命じました。

日解連(日本人共産主義者の団体略名、日本人民解放同盟の略で、以下「日解連」と表記する)とは、日本人に対する中国共産党軍の命令下達や個別の日本人情報を伝えて、更に日本人への共産主義化教育を担当する支那共産党の下請け組織です。

このことは大事なポイントなのですが、およそ民族支配をしようとする者たちは、必ず民族の分断工作をします。
欧米列強が東南アジア諸国を支配するに際して、最貧層だった少数民族の華僑を利用したり、日本を占領したGHQが、在日朝鮮人を利用して武器を与え朝鮮進駐軍を名乗らせたのも、そうした分断工作の手段の1つです。

満洲の通化でも、日本人遺留民の分断工作のために、支那の共産主義を受け入れる者にある種の特権を与え、同民族同士での分断工作が行われていました。(その大多数は支那中共により、口止め殺害されていますが、日本国内での支那擁護要員として選別され、生き残って帰国したのが、いわゆる戦後の、中国擁護の証言をメディア等で、行っているのが中帰連といわれる正しく売国奴です。)

それが日解連の役割だったわけです。

日解連は、日本人のスパイとなり、支那共産兵に、どこぞの日本人宅には、これこれの財産がまだ隠されている、誰々の家には、美人の娘さんがいるなどの情報を与えていた。

しかし、恐怖に縛られ、この手のいわゆる裏切り(分断工作)に応じた人たちも、結局は被支配者であり、しょせんは奴隷にすぎないという事は、通化事件後に口封じとして殆どが殺害されています。

日解連は、支那共産党軍の指示に従い、日本人遺留民の財産を全て没収しようとします。
これに対し、日本人遺留民たちは、正々堂々、最低限の衣類や食糧の確保の嘆願を続けます。
すると支那共産党は、没収を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約を要求します。
そして11月17日には、支那共産党に応じない元満鉄総裁の大村卓一を、満鉄総裁であったことだけを罪状として逮捕、投獄した。

この間も、支那共産党の兵士たちは、武器捜索を名目に、日本人の家屋に押し入っては、略奪・暴行・強姦を、連日繰り返しているのです。

そして、12月23日、日解連の通化日本人遺留民大会が通化劇場で開催されます。

劇場には、中国共産党万歳、日本天皇制打倒、民族解放戦線統一などのスローガンがおどっています。

大会には、劉東元司令を始めとする支那共産党の幹部が列席し、日解連幹部らも檀上に勢ぞろいした。そこに日本人遺留民3,000人が出席します。
議長は、日解連幹部で元満州国官吏の井手俊太郎が務めます。
彼は、「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」と、冒頭に発言した。
日解連幹部たちは、自分たちのこれまでのやり方の手ぬるさの謝罪が行われ、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰です」などと、連日乱暴狼藉を働く支那共産党に媚びた発言がなされます。
しかし、発言を求められた日本人遺留民たちは、その席で、日解連を堂々と非難したのです。
そして明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言を、次々に繰り広げます。

そして山口嘉一郎老人が、
「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案しました。
会場に、満座の拍手が沸き起こります。
議長が苦い顔で、賛意を示す者に起立を求めました。
会場のほぼ全員が起立した。
そして高らかに、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われます。
万歳のあと、山口老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれません。ですから徐々に教育をお願いしたい」と述べます。
きわめて常識的な発言です。

大会は、日本人有志の正々堂々とした発言で会場を取り仕切られました。
しかし、その日の翌日以降、大会で発言した者は、全員、支那共産党によって連行され、殺害されてしまいました。

大会から1週間が経過し、年が明けた昭和21年1月1日、支那共産党の工作員であった内海薫が、殺害されます。
犯人はわかりません。

1月10日、支那共産党は、日解連幹部の高級官吏や日本人遺留民の指導者ら140名を、内海薫を殺害した容疑であるとして連行します。
そして全員を抑留した上で、日解連も強制的に解散させてしまった。

1月21日、支那共産党は、日本人4名を市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑します。
日本人たちが見ている前で、彼らは遺体を何度も撃ち、銃剣で突き刺し、ハチの巣にしたうえで、切り刻みます。

日本人遺留民たちの怒りは、徐々に高まっていきます。
こうして昭和21年2月3日、通化事件は起こりまが、この決起の情報は、解散されたとする日本人民解放同盟(後に、日中友好協会を設立)がシナ共産党に告げ口していて、全てが知られていたのです。

この通化事件の情況については、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の末、やっとの思いでどうにか無事祖国にたどり着くことができた外科医婦人中郷三己枝さん(当時27歳)の手記がありますので、まるごとご紹介します。

出典は、高崎弥生氏の著書「実録、遥かなる回想」です。

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中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった。

その中心人物は藤田大佐で、かつて戦車隊長として雷名をとどろかせた猛将として有名だった。
昨年6月、通化にやってきた今利中将ひきいる第百二十五師団の参謀長だった。

この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、総勢、約千名が、2月3日の未明を期して一斉に蜂起した。
それは暴動のようなものではなく、それぞれ攻撃目標を定めた組織的な反乱だった。

しかし、頼みの国民党軍は呼応しなかったし、同時に立ち上がる予定の航空隊は、八路軍(支那共産党軍)の先制攻撃を受けて参加できず、それ以上悪いことに、反乱軍の動きは、八路軍のスパイ(日本人民解放同盟)によって探知されていたため、奇襲攻撃はことごとく失敗に終わった。

部分的に要所を占領した部隊もあったが、それも数時間で壊滅してしまい、敵弾にたおれ、傷ついて捕虜になった者も多く、壮絶な戦死を遂げた者もすくなくなかった。

この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。

血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。

この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。
これは日本人弾圧の絶好の口実となった。

やがて恐ろしい報復が行われ始めた。
元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。

通化市内では、16歳以上60歳までの日本人男子は、ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと眼入れされた。市内は恐怖のるつぼと化した。

八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。
この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。

とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。
そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。
みるみるうちに、ばたばたと倒れた。

重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。

死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。

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監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま5日間もの間立ったままにされた。

苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。
発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。

しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。
そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。

その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。

そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。
たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。

やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。

するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。
これが毎日のように行われた。

なんという地獄絵図だろうか。

一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。
手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。
帰ってからも発熱のために苦しむ者。凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。

(同上)
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抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害されました。

殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされました。
また、数百人が凍傷に罹り不具者となりました。

拘束から5日後、部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが、その場で撲殺されました。

撲殺を免れたものの多くは、骨折した手足をぶらぶらさせていました。

その後、支那共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われました。

女性にも多数の処刑がされました。

渾江川の上には、服をはぎ取られた女性の裸の遺体が転がっていました。

男たちが拘束されている間、支那共産党軍の兵士たちは、日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦することもあり、凌辱された女性の中には自殺するものもありました。

事件後、3月10日になると、市内の百貨店で支那共産党軍主催の二・三事件の展示会が開かれました。

戦利品の中央に、蜂起直前に拘束された孫耕暁通化国民党書記長と、2月5日に拘束された藤田実彦大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられました。

3月15日に藤田大佐が獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされました。

渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんでいました。

この年の末、国民党政府軍が通化市を奪還します。
国民党は、事件犠牲者の慰霊祭を行ないました。

しかし翌年には、再び通化市は、支那共産党軍が占領しています。


通化事件というのは、大東亜戦争がすでに終結したあと、日本に帰国するために比較的治安のよかったとされる通化市で起こった事件です。

ある意味、通化事件は治安が良かったという事で、この様に事件として知る者が存在しているが、その他の治安が良くない地域では一体どの様な戦後処理が成されたのかと思うと想像を絶してしまう。

通化事件とは、日本に帰国しようとする避難民に対し、支那共産党は略奪強姦の限りを尽くし、我慢の限界を超えた日本人が、武器も持たずに一斉蜂起(2月3日)すると、彼らはこれを鎮圧した。

そして蜂起とは何の関係もなかった日本人を含め、多数の日本人を、零下30度の極寒の中で、両手を上げさせて銃剣で追い立て、一部を殺害し、一部を監禁。

監禁された日本人は、せまい部屋に120人ごとに押し込め、さながら満員電車のような身動きできない空間で、酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃って殺した。

5日間にわたって、大小便垂れ流し状態で死体とともに立ったまま部屋で監禁されていた日本人たちは、ようやく息も絶え絶えに部屋から出されると、こんどは朝鮮人たちが、こん棒で好き放題に殴りつけました。
ある者は殺害され、生き残った者も手足をぶらぶらさせていました。

一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって、一般の民間人二千人(一説によると数千人)近くが殺された、この通化事件は、支那が捏造している南京事件と異なり、完全な事実であり、日本の教育現場では教えられることの無い史実なのです。

しかも、ときは戦時中ではなく、戦争が終わった後、それも武器を持たない一般市民に対して行われた暴虐です。

ちなみにこの事件の際、支那共産党に媚を売り、日本人の密告や財産の強奪の手引きをしていた日本人の共産党工作員がいました。

彼ら工作員は、日本人避難民が乞食同然の生活苦でいたときに、立派な服を着て街を闊歩し、罪のない日本人を売って得意になっていました。

しかし通化事件のとき、その日本人共産党員も、口止めとして他の日本人と同様、殺され、監禁され、手足の骨を折られています。
この地獄を見て、命乞いをしたのが中帰連で、帰国後、日本で「優しい中国人と日本兵の悪事」を啓発している正に売国奴なのです。

悪に魂を売って、一時的な利益を得ても、結局は悪によって滅ぼされる。

いま、日本を売り、個人の利得を得ようとしている日本の政治家も、いずれ彼らの思惑通りに日本に外国人参政権が誕生した際には、真っ先に、裏切り者として糾弾され、財産を没収され、殺される運命にある。

世の中とは、そういうものだと思います。

通化事件は、たいへんな死傷者を出した大事件です。
記録にもあるように、この事件では、日本人が二千人(支那中共発表の数字です)も殺され、その死体は、余りの多さに、夏になっても渾江川に浮かんでいたという。

大規模な殺害があれば、そういう証拠がいつまでも残るものです。

まして支那や反日主義者が主張するように、南京で日本人が30万人も虐殺を行ったとするならば、その記録や証拠が、いくつも残らなければおかしい。
しかし、そんな証拠はまったくないし、証拠として出されているものも、それが捏造である事実がことごとく暴かれています。

戦後の反日左翼や反日思想家たちは、この通化事件について、日本軍が乱暴狼藉を働いたために、その騒動に一般の日本人民間人が巻き込まれ、たいへんな被害に遭ったと説明しているようです。

しかし、上に述べたとおり、日本人の旧軍人たちが蜂起したのは事実ではあるけれど、彼らは武器すら携帯しておらず、軍刀すら没収されて持っていなかったのです。
しかも決起の情報は、日本人民解放同盟によって、中共に伝えられていたという事実。

そして事件までの半年間、財産を奪われ、家屋に押し入られ、女性たちを強姦され、あるいは殺され、暴行を受け、無理やり共産主義万歳と唱えさせられ、もうどうにもならないところまで追い込まれて、彼らは蜂起したのです。

それに対する支那共産党の報復は、蜂起した者だけではなく、一般人を含めた虐殺だったのです。

事件が起こったのは、昭和21年です。すでに戦争は終わっています。
日本と支那は、このときすでに交戦状態ではなかったのです。

つまり暴動が起きた、それも武器を持たない市民(旧軍人もこの時点では一般市民)の蜂起であったとすれば、鎮圧は国内の治安維持活動であるはずです。

にも関わらず、支那が行った行為は、暴行であり虐殺でした。

これが非道にあらずして、何をもって非道というのか。

それともうひとつ。
通化事件で、日本人は、たいへんな目に遭いました。

国が亡くなる、支那共産党に支配される。するとどういうことが起こるか。
その実例がこの通化事件にあります。

日本は良くない国だ、という人たちがいます。
支那と仲良くすることが良いことだと言う人たちがいます。
支那、朝鮮、日本を東アジア共同体として、ひとつの国にまとめあげようという人たちがいます。

しかし、実際にそうなったときの実例が、通化事件にあります。

そんなことは何十年も昔の話だろう、という人もいます。

しかし、天安門事件、あるいはウイグル弾圧、チベット弾圧等々。
いまも昔も、支那共産党はなんら変わらない。

家庭を守る。それは夫ならあたりまえに思うことです。

家族の平穏と安全、子供たちがすくすくと育つ環境。平和な社会。
それは、私たち普通の市民が、普通に思う心です。

しかしそうした家族の平穏、安全、社会環境、平和の一切は、国家がきちんとしていてはじめて成り立ちうるものです。

国を失うということ。
それがどんなにみじめでたいへんなことなのか。
通化事件は、そのことを、私たちに教えてくれているように思います。

私たちは、絶対に日本を失っちゃならない。
日本をもっと大事にしなきゃならない。
この国を守るために、必死に戦ってくれた先人たちに、もっと深く感謝しなければならない。
そして未来のために、私たちの子や孫のために、この日本を守り抜かなきゃならない。

この通化事件は、戦後に起きた事件の一部でしかない。
終戦間直に日本人共産主義者はどの様に関東軍に係わってきたのか、ソ連軍のシベリア鉄道を介し武器の輸送を報告せず黙殺し、多くの関東軍に被害を負わせてシベリア抑留に加担したか、満州開拓日本人を危険に晒し、日本人を共産国家に売り渡した日本人共産主義者が、終戦後、反戦主義者の仮面を被り反戦運動を展開ている。
戦後の日本は、こらの左翼によって牛耳られ政権の中枢に勢力を拡大している現状を、今を生きる国民はその危険性に気付かなければならない。
ボクはそう思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

日本国民よ。目を覚ませ!
これが、戦後、反戦平和を唱え、支持拡大を謀り、尊い先人を皆殺しにした共産主義者達なのです。

誠の目


日本人民解放同盟とは
野坂参三が毛沢東の指示により、1940年に延安に設置された日本労農学校や第二学校などの捕虜収容所において校長を務め、日本人捕虜たちに自己批判などによって共産主義者になるよう教育を行うようになった。
なお、教育課程中に脱走したものは処刑されることになっていた。
思想改造教育修了者は、野坂参三の提唱に基づいて1944年に結成された日本人民解放連盟に加入させ、日本軍へのプロパガンダ工作を行った。
野坂参三が設立した日本人民解放連盟の工作活動は中国にとどまることなく日本における反政府活動や戦争終結後の革命運動にも利用することとしていた。
この日本兵の共産主義への洗脳活動中、野坂は日本兵士に存在する天皇陛下への敬愛の念の深さを実感し、天皇陛下を利用しての革命の実現、「愛される共産党」の提唱につながった。 
終戦後も日本人民解放連盟は中国共産党に協力し、通化事件等にも深く関与することとなったが、その大半が中国共産党によって証拠隠滅の為、殺害されている。


野坂参三とは
野坂 参三(のさか さんぞう、1892年(明治25年)3月30日 - 1993年(平成5年)11月14日)は初代・日本共産党議長、コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本代表、日本共産党の第一書記を務め、名誉議長となる。
衆議院議員(3期)・参議院議員(4期)。
初名は小野参弎(おの さんぞう)。
シナでは岡野進と称して活動していたことからも判るように、シナのスパイというよりはロシアのスパイとしてシナ国内で活動していました。
ペンネームは野坂鉄嶺、野坂鉄など。
明治45年、慶應義塾大学理財科に入学し、在学中に友愛会に入り労働運動に参加する。
卒業後、常任書記となる。
1919年(大正8年)友愛会の派遣で英国に渡り、イギリス共産党に参加。
帰国後、第一次共産党結成に参加。
1923年(大正12年)6月5日の第一次共産党検挙事件に際してソ連へ密航。
日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂栄太郎に影響を与える。
三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。
この釈放から1931年(昭和6年)に妻野坂龍とともに秘かにソ連に入国するまでの経緯には謎が多い。
外国人向け政治学校東方勤労者共産大学(クートヴェ)で秘密訓練を受け、コミンテルン、内務人民委員部(NKVD)のスパイになったという。
その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係する。
また、1940年(昭和15年)、中華民国の延安で中国共産党に合流する。
同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年(昭和19年)2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行ったり前線で「日本兵士よ。脱走しなさい。私が日本に帰れるようにしてあげます。共産党第八路軍、日本人岡野進」
という内容のビラをばらまくなど、日本帝国主義打倒を目指した活動をおこなった。
1946年(昭和21年)1月12日に中国から(直行で帰った事になっていたがソ連経由であった事が後に判明、このソ連を経由しての帰国は、シベリアに抑留された満州での事実を知る日本人を、日本国内で国民への洗脳が徹底されるまで帰国させないよう求めたものです。)帰国し、26日に日比谷公園で参加者3万人による帰国歓迎大会が開催される。
大会委員長山川均、司会荒畑寒村のほか日本社会党委員長片山哲の登壇、尾崎行雄のメッセージなど、党派を超えて集まり、民主戦線樹立を目標とすることが宣言された。
この大会のために『英雄還る』という曲が作られ、声楽家・四家文子が壇上で熱唱。
また薄田研二は「同志、野坂帰る」ではじまる歓迎詩を朗読した。
ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙で、ソ連のシベリア抑留の肯定、延長を求める文面があり、それを元に国会で大々的に追及される。
1950年(昭和25年)に日本共産党がコミンフォルムから平和革命路線を批判され内部分裂した際には、徳田らとともに所感派の指導者となり、宮本顕治らの国際派と対立。
さらにGHQからレッドパージを受け、地下活動、中国に亡命(北京機関)して武装闘争路線を採った。
1955年(昭和30年)に帰国して国際派と和解し、六全協で武装闘争路線を否定して第一書記に就任。
1956年(昭和31年)に東京都選挙区から参議院議員に当選、1977年まで4期(うち1期は3年議員)にわたって参議院議員を務めた。
1958年(昭和33年)に共産党議長となり、宮本顕治が書記長となった。
1982年(昭和57年)7月の第16回大会で退任し、以後名誉議長。


通化で活動していた日本人民解放同盟の実質的な指導者だった前田光繁とは

前田 光繁(まえだ みつしげ、1916年 - )は、日本の海軍軍人。
八路軍の日本人兵士第1号。別名杉本一夫。
野坂参三に次ぐ日本人民解放連盟の2番手となる。
同年11月には八路軍内において「日本兵士覚醒連盟」を組織した。
朱徳と行動を共にして戦闘に参加した後、1942年(昭和17年)に反戦活動のため延安に移動し、終戦まで同地にとどまった。
終戦後満州に赴き、中国共産党および八路軍の活動に協力しながら、通化事件にも関与した。
その後も八路軍のために活動を続け、1958年(昭和33年)に日本へ帰国した。
帰国後は日中友好協会の理事を務め、日本国内でシャアシャアと左翼の言う日中友好の平和活動を行っている。

鹿地 亘(かじ わたる、1903年5月1日 - 1982年7月26日)は、日本の小説家。
日中戦争時は中華民国軍に協力を求め、捕虜になった日本兵士の教育にあたった。
大分県出身。本名は瀬口貢。
東京帝国大学在学中から文学と社会運動に関心をもち、林房雄や中野重治たちと社会文芸研究会(のち、マルクス主義芸術研究会に改名)を運営した。
大学の外でも、プロレタリア文学運動に参加し、1930年「労働日記と靴」で注目を浴びる。
ただ、当時は文学をプロパガンダに使うことを重視していた傾向があった。
弾圧で検挙されたあと、出獄し中華民国にわたる。
中華民国では魯迅と親交をもつ。
最初は上海に滞在していたが1937年の日中開戦を機に脱出、香港経由で武漢に、そのあと国民政府とともに重慶に移動する。
この時期、1938年12月、蒋介石の承認を得て国民党支配地区で「日本人民反戦同盟」を結成、「日本人の自立した立場」から日本人捕虜、居留民に対する「教育」を開始し彼らを組織して日本軍兵士への反戦活動を行った。
日中戦争中の1938年5月19日に中華民国空軍所属のマーチンB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)が、中国大陸から日本の九州上空に飛来し、宣伝ビラを散布する軍事行動をした。
このビラは鹿地が作成したものであった。
後に延安ではじまった野坂参三たちの日本人民解放連盟の活動は、形式としては「鹿地のはじめた活動の支部」という形態をとっていた。
しかし1940年以降、反戦同盟を親中国共産党団体と見なした蒋介石は弾圧を始め、鹿地はやむなく重慶で現地の情勢分析活動に従事した。
第二次世界大戦の終結後に帰国し、民主主義文学の陣営で活動する。
1947年の第1回参議院議員通常選挙に無所属で全国区から立候補するが落選した。

1951年11月25日、神奈川県藤沢市内においてアメリカ軍諜報機関(キャノン機関)に拉致され、アメリカのスパイになるよう強要される鹿地事件が起こる。
監禁開始から約1年後の1952年12月に解放され帰宅した。
解放直後、国会に証人喚問され鹿地事件について証言している。
晩年は戦時中の活動の経験を中心に執筆し、『日本兵士の反戦活動』(同成社)『「抗日戦争」のなかで』(新日本出版社)などを著した。
雑誌『民主文学』に、それらの続編にあたる「反戦同盟記」を連載中に死去した。

この様に、国共合作を有効に活用しようとした当時の中国共産党が、国民党の日本人捕虜収容所に於ける教育現場を参考にして、それまで日本人捕虜を虐殺していたが、その捕虜を洗脳して共産主義者にさせた後に日本人民解放同盟を設立させ、後に通化地区に於いて活用して日本人の監視役として投入した、通化に抑留された日本人を虐殺後、用済みになったら日本人民解放同盟関係者を口止め殺害したのは言うまでもない。
これが中国共産党の手法なのです。



真実の創氏改名とは

2012.02.11(10:46)

創氏改名の出発点は、 総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」である。
1909年、大韓帝国は日本の指導に基づき民籍法を制定し、近代的戸籍の整備を開始した。
女性については父姓と続柄・年齢などだけを記載するなど、朝鮮の慣習と衝突しないようにしたため、整備が終了したのは併合直前の1910年4月であった。
この時一部の朝鮮人が日本内地風の姓名で届けを出すなどして混乱が生じたとして、当時の朝鮮総督府は1911年11月1日、総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」などの通牒によって、「内地人ニ紛ハシキ姓名」を許可しないこととし、出生届などでも内地風の名前を届けることに厳しい制限をつけた。

併合当時、殆どの朝鮮人には名前が無く、日本式の戸籍を作成する為、自ら好きな名前(日本名以外)を役所に届けるよう通達を出したのが、一般の朝鮮人が、300年ぶり(300年前の朝鮮人は、秀吉の朝鮮出兵に便乗し、当時身分を管理していた掌隷院に火を付け、自らの解放を祝ったのですが、その結果、以後名無しで300年過ごす事となった)に名前が与えられることとなった(ですから、奪ったのではなく、与えたが正しい解釈)のである。

1939年(昭和14年)11月10日朝鮮総督府制令第19号で、朝鮮民事令11条の第三次改正が発布され、翌年2月に施行された。その内容は、

(1) 氏に関する規定

(2) 裁判上の離婚

(3) 婿養子縁組みの無効・取り消し

(4) 異姓養子を認める

この改正において、創氏改名に当たる改正は、(1)氏に関する規定である。
では、規定とはどの様なものか
 朝鮮人の姓は、周知のように結婚しようが何しようが変わることがないというのが古来の慣習である。
それは朝鮮の「姓」が父系の血縁関係を示すもので、「姓」が違うということはその関係がないことを意味し、朝鮮の一般民の間で日常的に行われていた近親相姦を予防する為に結婚しても「姓」を変えることなく生活していた。
日本の統治が始まると近親相姦は禁止され、奴隷階層の解放が行われ、同時にそれまで与えられてなかった名前を300年ぶりに名乗ることを許されたのである。
これが所謂、創氏なのです。
ですから朝鮮人の結婚とは、別姓の相手としか婚姻関係が成立しないのです。
この朝鮮の異常とも言える家系を重視する必要が朝鮮にはあったのかが推測できる。
朝鮮人にとって、永きに渡り近親相姦を続け、遺伝子的に異常な国民が多く存在している事実と、その危険性からの回避手段としての同姓での結婚が出来ない事が、常識として継承されてきたのです。
それを示す朝鮮伝統芸が「病身舞」で、朝鮮人の歴史を奇形民族であることを忘れない為に継承され、同時に近親相姦の危険性を今も伝えているのです。
ですから朝鮮人の家庭では、女性は姓を結婚後も変えず、嫁ぎ先とは血縁がないことを周辺住民にも認知(朝鮮人の差別意識は一般的に存在し、その対象にならない様、血縁関係が無いことを周知させる為に必要だった)させていた、また自分の出自の父系一族とのそれを否定できないから、「姓」を変えることはなかったのです。
従って例えば金さんという家があったとしたら、祖母は朴さん、母は李さん、兄嫁は鄭さん、妻は張さん、長男の嫁は呉さん、次男の嫁は崔さん‥‥というような具合に名前が違ってくる。
 そこで、一つの家の中で法律上の名前の違う人が存在するというのを、日本風に家族名として統一した「氏」を決めて、そしてその「氏」を届け出るように指示したのが創氏改名令の趣旨なのです。
つまり、「姓」と「氏」を朝鮮人は有していたのであって、姓を奪ったのではないという事を理解して下さい。
朝鮮にとっての「姓」とは、奇形児の出生を回避する為、必要不可欠だったのです。
この様に、届け出るということは、例えばある金さんの家では「金川」と創氏を届け出て、家族全員(男性や子供はもちろん嫁に来た女性も)が「金川氏」となった。
これを「設定創氏」という。
氏の下の「名」の変更は任意だったようで、多くの場合改名していない。
ところが届け出なかった人たちも存在している。
届け出たのは322万戸(約80%)とあるので、創氏を届け出なかったのは全朝鮮人の約20%ということになる。
しかし創氏は法律で定められていることなので、すべての朝鮮人は創氏をせねばならない。
この場合は、その家の家長の姓が例えば金さんなら、その家族全員を「金」と創氏させたのである。
これを「法定創氏」というが、これによって金さんの家では嫁に来た女性もすべて「金氏」になったということになる。
 つまり1940年の創氏改名令の施行時に創氏を届け出なかった人は、家長の先祖伝来の男系の姓である金とか李とかの朝鮮名をそのまま継承し、それを「氏」としたのです。

創氏は家族名としての「氏」を新たに設けることであり、先祖伝来の「姓」には変更はなかった。
朝鮮戸籍には創氏改名が書き加えられたのみで、「姓」は抹消されずに本貫欄に残った。
本貫欄は日本戸籍にはなく、朝鮮戸籍独特のものでした。
創氏改名後はこの欄に本貫とともに「姓」が記載されることになったのである。
よって、日本が朝鮮の「姓」を抹殺したという説は明らかに誤りである。

創氏改名後のあの戦時中でも、朝鮮人の少なからずが朝鮮名を維持してきた方達の存在である。
創氏改名を届け出て「日本式」の名前になったと言うが、なぜこれが「日本名」なのか、上記のように、1911年11月1日、総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」などの通牒によって、「内地人ニ紛ハシキ姓名」を許可しないとされていた為、出生届などでも内地風の名前を届けることに厳しい制限が成されていたが、日本名に改名するに至った切っ掛けは、満州開拓民の朝鮮人がシナ人によって多数の被害を受け(実際には日本人のへの被害件数の方が多いが、日本人は当時、一等国民で優遇されていた為、日本名を朝鮮人は付けたがっていたのである)、それを回避する為に日本名の使用を求めていたが、当初はこれに難色を示していた日本国政府でしたが、度重なる被害報告に人道的観点から、開拓民のみ日本名の使用を許可(裁判所で必要性が確認されれば許可された)したことが日本式名使用の始まりであり、当初は裁判所の許可が必要でしたが、被害回避人道的救済処置と申請件数が多数申請され、さらに半島在住の朝鮮人も日本名使用を朝鮮総督府に求め出し、開拓民の裁判での許可には申請してから徐々に時を要するようになり、日本名に改名したい朝鮮人に日本名を与える法令を改めて定め、これに対処したのが朝鮮人が日本名を使用した経緯である。
 創氏改名が「朝鮮人の固有の姓を奪い、日本名を強制した」というのは、根拠のない俗説で、朝鮮人からの要請による改名であって人道的観点からの法的処置であったことがかれらの経緯からも理解できるだろう。

 これら創氏改名の経緯と当時の朝鮮人に朝鮮名を名乗る方達が存在していたことから、日本名への創氏改名は強制ではなく、申告制で自らの意思で日本名を選択したものだという事が明らかだということである。







張鼓峰事件

2012.02.04(15:02)

極東ソ連軍の増強と共に、ソ連軍による満ソ国境侵犯が増加し、侵犯のやり方も徐々に挑発的になってきた。
国境紛争は満州国建国以来昭和9(1934)年までの3年間に150件だったが、昭和10(1935)年には1年間のみで176件に及び、事件の性質も悪化した。
満州国及び関東軍は、ソ連に国境を確定することを提案したがソ連は応じなかった。
このため、国境紛争は激化し、またソ連軍による不法射撃、兵員の越境、飛行機による領空侵犯も激増した(ロシアは今でもやっている)。
元来、満露国境についてはネルチンスク条約以来いくつもの協定があったが、国境線は曖昧になっていた。
ソ連は国境線不明確を国境侵犯のために逆用していたのだ。

張鼓峰は朝鮮と満州を隔てる豆満江河口から20数キロ上流で、ソ連領からも近い標高150メートルほどの高地である。
この事件の発端として、昭和13(1938年)6月13日、リュシュコフ大将の亡命がある。
ソ連は軍の情報漏洩を危惧して、リュシュコフ殺害をすべく満州へと侵攻する準備を行い決行したが、張鼓峰への進攻の情報は、関東軍情報部が、国境の警備隊長から極東軍指令部への張鼓峰への進攻許可の通信を傍受し確認済みでしたが、昭和13(1938)年7月9日に10数名のソ連兵が張鼓峰の頂上に現れ、その西側斜面に陣地を構築し始めた。
ソ連兵はすぐに約40名まで増えた。
日本はソ連兵の撤退を要求したが、ソ連側は聞き入れなかった。
現地は朝鮮に隣接していたため防衛は朝鮮軍(日本軍)が任務に当たっていた。
朝鮮軍も陸軍中央も、外交交渉による解決を第一としていた。
7月29日になるとソ連軍約10名が張鼓峰の北にある沙草峰にも進出して陣地構築を始めた。
沙草峰はソ連が主張する国境線よりもさらに1000メートルも満州国に入ったこれも明らかな満州国領である。
この不法行為に対して朝鮮軍の第19師団長は、自己の責任で実力を行使、ソ連兵を撃退させ、張鼓峰と沙草峰の両峰を占領確保した。
侵略を妨げられたソ連軍は8月1日より狂気じみた奪回作戦を展開した。
両峰を防衛する朝鮮軍に対し、ソ連は大量の戦車と飛行機を投入して大規模な爆撃を行なってきた。朝鮮軍は専守防衛に徹し、一台の戦車、一機の飛行機も使用していない。
ソ連側は外交交渉を引き延ばして紛争の長期化を図り、その間、爆弾投下と長距離射程の砲撃により日本の戦力は消耗し続けた。
日本軍は不拡大方針であり、また越境が許されなかったため、敵の攻撃力に対して壊滅的打撃を加えられず、大被害を蒙るだけだった。
8月4日より日本はソ連に対して停戦交渉の申し入れをしていたが、8月10日についに停戦協定(双方の軍隊は、現状より80メートルずつ後方に後退し、陣を張ること)が締結されたが、ソ連軍は11日も猛烈な攻撃を続行した。
しかし、第19師団は頑張り抜き、張鼓峰頂上から沙草峰東側に及ぶ線は朝鮮軍が確保したまま停戦を迎えた。
11日、撤収に関する命令で第19師団は13日、豆満江右岸に撤退を完了した。
ところがソ連軍は日本軍撤退後、撤退せず張鼓峰を逆に占拠、満州国内に20キロにわたる鉄条網を張り、強固な野戦陣地を構築してしまった。
ソ連軍の騙し交渉で、日本軍が確保した張鼓峰はソ連軍に奪われ、さらに翌年、重要地点をトーチカ陣地で強化、国境制定交渉を待たずに、騙し討ちによって事実上の国境線を勝手に作り上げたのである。
停戦協定を信用した日本軍の善意をソ連側は裏切った(毎度のソ連手法、戦争は弱いが、相手を騙すことで領地を拡大)のだ。
昭和16年(1941年)そのソ連と日ソ中立条約を結んで、それを一方的に破棄して日本国に攻め込んできたことは説明の必要が無いかな
この張鼓峰事件での戦闘で、ソ連軍は、22,950、日本軍、20,000を動員、ソ連軍の武器は戦車、戦闘機、マキシム機関銃で武装していたが、日本軍は戦闘拡大の回避をを命じられ、通常携帯の武器のみでソ連軍に占拠された張鼓峰を奪還した。
死傷者に於いてソ連側、717名、日本側、525名、負傷者ソ連側、2,752名、日本側、913名と通常の武器のみの日本軍は武装した敵に対し、2倍の被害を与えている。
ソ連軍は、戦力増強で圧倒的優位を得るに至ったが、朝鮮軍(朝鮮半島に駐屯していた日本軍。戦争時には、作戦や被害報告で混乱が起きないよう駐屯していた地名で軍隊が呼ばれていたので、朝鮮人の軍隊ではない)あるいは関東軍に屈し、戦闘では日本軍に完敗したが、持ち前の騙しテクニックで領地を拡大したのだ。
このように張鼓峰事件は、ソ連の明らかな国境侵犯でしたが、東京裁判ではソ連は図々しくも日本の国境侵犯を主張し、その主張が受け入れられたのだ。

ソ連はこの事件の翌年、ヨーロッパに侵攻する為、極東の地を盤石にするべく「ノモンハン事件」を引き起こし、この事件で結果的に、ソ連は甚大な被害を被っている。

ポツダム宣言 東京裁判 サンフランシスコ平和条約

2012.02.02(15:49)

日本は東京裁判史観により拘束されない――サンフランシスコ平和条約第十一条の正しい解釈

一 平和条約第十一条についての誤解

 大東亜戦争の終結直後に連合国占領軍によって強行されたいわゆる東京裁判(極東国際軍事裁判)が、国際法に違反する政治的茶番劇であったということは、近年においてすっかり日本国民の常識として定着した観があります。
しかし、その反面、あくまでも東京裁判を肯定して、その判決中に示された日本悪玉史観を奉持し続けたいと考えている人々もいることは事実のようです。
そのような人々は、えてして「日本は、サンフランシスコ平和条約十一条の中で東京裁判を受諾しているから、東京裁判史観を尊重する義務がある」と主張する傾向があるように見受けられます。
最近では、政府部内にも同じような考え方で東京裁判史観に拘泥する人が若干いることが判明しています。
しかし、平和条約十一条を右のように解釈することは、国際法理上、間違っています。
その理由を以下に説明します。
 まず問題の十一条の規定を次に掲げます。
「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。
これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。
極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。」(外務省訳)
 右の十一条の全文を読めば、本条の目的が、いわゆるA級およびB・C級戦争犯罪人を裁いた連合国側の軍事法廷が日本人被告に言渡した刑の執行を、日本政府に引受けさせるとともに、赦免・減刑・仮出獄の手続を定める点にあることが、明らかに理解されましょう。
 これらの軍事法廷では、被告とされたのは個人で、国家ではなく、はっきりいえば、日本国家は軍事裁判には直接のかかわりを持ちません。
その日本国家が連合国に代わって(国内の受刑者の)「刑を執行する」責任を負うなどするためには、「受諾」という行為が必要となるのです。
 ところで、十一条の日本文では「裁判を受諾する」となっている点が問題です。サンフランシスコ対連合国平和条約(昭和二十六年九月八日調印、翌二十七年四月二十八日発効)は、日本語のほかに、等しく正文とされる英・仏・西語で書かれていますが、アメリカのダレス国務長官が原案を起草したという歴史的事実にかんがみ、まず英文の十一条から検討してみましょう。

初めの部分は次のとおりです。

 Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan.

 これで見ますと、日本文で「裁判を受諾する」となっている箇所は、英文では accepts the judgments です。英語の judgments は法律用語として使われる場合、日本語の「判決」の意味に用いられるのが普通であり、「裁判」を通常意味する trial, proceedings とは区別されるべきことは、例えば権威ある法律辞典 Black's Law Dictionary の説明からも明白です。
そこでは judgment は、The official and authentic decision of a court of justice upon the respective rights and claims of the parties to an action or suit therein litigated and submitted to its determination.(司法裁判所が、同法廷に提起されてその判定が求められている訴えないし訴訟の当事者の、それぞれの権利ならびに請求に関して下す、公式かつ有権的な決定)と説明されています。
以上から、英語の本文では、問題の箇所は「判決を受諾する」意味であることが明瞭です。

 次に、フランス語正文で同じ箇所を見てみましょう。

 Le Japon accepte les jugements prononcés par le Tribunal Militaire International pour l'Extrême-Orient et par les autres tribunaux alliés pour la répression des crimes de guerre,au Japon et hors du Japon, et il appliquera aux ressortissants japonais incrarcérés au Japon les condamnations prononcées par lesdits tribunaux.

 ここで注目されるのは、日本が、諸軍事法廷により「言渡された判決を受諾する」(accepte les jugements prononcés par……)と書かれていることです。
フランス語では prononcer un jugement と使った場合、「判決」を下す(言渡す、宣告する)の意味であって、この場合 jugement は裁判を意味しません。

 最後に、スペイン語正文で同じ箇所を見ることにします。

 El Japón acepta las sentencias del Tribunal Militar Internacional del Extremo Oriente y de otros Tribunales Aliados de Crimenes de Guerra, tanto dentro como fuera del Japón,y ejecutará las sentencias pronunciadas por ellos contra nacionales japonesses encarcelados en el Japón.

 ここでは、日本は諸軍事法廷の「判決」(las sentencias)を受諾し、それらの法廷により言渡された刑(las sentencias pronunciadas por ellos)を執行すべきものと書かれています。
スペイン語の sentencia は、判決、または宣告された刑を意味しますが、裁判を意味する言葉ではありません。
 以上、語義論的に説明しましたが、日本が平和条約十一条において受諾したのが「裁判」ではなく、「判決」であることが、おわかりいただけたことと思います。
「裁判」と「判決」とでは、条文の意味が随分変わってきます。
もともと英語正文の翻訳を基礎に書かれた日本語正文で、なぜ「判決」ではなく「裁判」の語が使われたのか、その理由と背景を探ることはある意味で重要ですが、ここではこれ以上深追いしないことにします。


二 講和条約とアムネスティ条項

 国際法においては通常、講和条約(平和条約)の締結・発効によって、戦争が正式に終結するものとされます。
つまり、講和の成立(平和条約の効力発生)によって、国際法上の戦争状態が終了するのです。
日本の場合、昭和二十年九月二日に米艦ミズリー号上で連合国との間で「降伏文書」(連合国側の命名)の調印を行いましたが、この文書はポツダム宣言の内容を条約化して、日本の条件付終戦――日本政府が無条件降伏したというのは大きな間違いです――を正式に実現したもので、法的には「休戦協定」の性質を持ちます。
 連合国占領軍は、日本が戦争終結の条件として受諾した事柄(ポツダム宣言六項~十三項に列記されています)を、日本に履行させるために、およそ七年間駐留して軍事占領行政を実施しますが、サンフランシスコ対連合国平和条約が発効する昭和二十七年四月二十八日までは、国際法的には日本と連合国の間に「戦争状態」が継続しており、いわゆるA級戦犯を裁いた東京裁判と、B・C級戦犯裁判とは、連合国が軍事行動(戦争行為)として遂行したものであることを、よく理解する必要があります。
 日本国民の中には、大東亜戦争は昭和二十年八月十五日に終わったと思い込んでいる人が多いのですが、国際法の観点からいえばこれは間違いで、戦闘期間が終わっても軍事占領期間中は「戦争」は継続されていたと見るのが正しく、事実、連合国側は平和条約発効の時まで、戦争行為として軍事占領を行うという意識を堅持して、連合国の目的にかなった日本変造に力を注いだのです。
 さて、ここで、アムネスティ条項(amnesty clause)の説明に移ります。
前述のごとく戦争を終了させるものは講和ですが、第一次世界大戦以前の時代にあっては、交戦諸国は講和に際して、平和条約の中に「交戦法規違反者の責任を免除する規定」を設けるのが通例でした。
これがアムネスティ条項と呼ばれるものですが、アムネスティとは「国際法上の大赦」を意味します。
 国際法では伝統的に戦争それ自体は合法的制度とされ、戦争の手段・方法を規律する交戦法規に違反した者だけが戦争犯罪人として、戦時敵に捕らえられた場合に裁判にかけられて処罰されました。
戦争を計画・遂行した指導者を犯罪人(いわゆるA級戦犯)とする国際法の規則は、厳密には今日でも存在していないと考えられています。
(第二次世界大戦後、国際連合憲章の発効とともに、自衛戦争とは反対の侵攻戦争[俗訳・侵略戦争]は、明らかに違法行為とされましたが、重大な違法行為としての犯罪とは正式にはまだされておらず、このことは国際連合国際法委員会においても認められています。)
 アムネスティ条項の説明の実例として、アメリカの国際法学者C・G・フェンウィック博士が自著『国際法』(一九三四年)の中で述べているものを要約しますと、同条項は「戦争中に一方の交戦国の側に立って違法行為をおかしたすべての者に、他方の交戦国が責任の免除を認める」効果を持つものとされます。
しかも、講和条約中に明示的規定としてアムネスティ条項が設けられていない場合でも、このような責任免除は講和(戦争終結)に伴う法的効果の一つであることが確認され、アムネスティ(大赦)が国際慣習法上の規則となっていることがわかります。
 国際法史上で有名なアムネスティ条項に、三十年戦争を終結させた一六四八年のウェストファリア平和条約の二条があります。
そこでは、戦乱が始まって以来、言葉、記述、暴虐、暴行、敵対行動、毀損、失費のかたちで行われたすべてのものにつき、「交戦諸国相互間で、永久の忘却、大赦ないし免罪があるべきものとする」と規定されています。
このような「全面的忘却」(oubli general)――すべてを水に流すこと――の精神に基づくアムネスティ条項は、戦争を燃えたたせた国家間の憎悪の焔を鎮めるために必要とされ、ウェストファリア条約のほかにも、一六七八年のナイメーヘン条約三条、一七一三年のユトレヒト条約二条、一七四八年のエクスラシャペル条約二条、一七六三年のパリ条約二条など多くの講和条約中に見いだされます。
 ナポレオン戦争後の一八一四年五月三十日にパリで調印された英仏間の平和友好条約は、十六条で次のように規定しています。
「両締結国は、欧州を震動させた不和軋轢を完全な忘却の中に埋没させようと願望して、いかなる個人も、その地位や身分にかかわりなく、(中略)その行為、政治的意見、またはいずれかの締結国への帰属の故をもって、訴追されたり、権利を侵害されたり、あるいは虐待されたりすることがないと、宣言しかつ約束する。」
 同様の趣旨の規定は、一八六六年八月二十三日にプラハで調印されたオーストリア-プロシャ間の平和条約の十条三項、一九一三年十一月十四日にアテネで調印されたギリシア-トルコ間の平和友好強化条約などに見られます。
一九一八年三月三日のドイツ-ソ連条約の二十三~二十七条、一九一八年五月七日のドイツ-ルーマニア条約の三十一~三十三条は、一般的アムネスティ条項を構成しています。
(第二次世界大戦後にも、連合国側が結んだ対ハンガリー平和条約三条、対ブルガリア平和条約三条、対ルーマニア平和条約四条、対フィンランド平和条約七条に、「連合国の側に立って行われた行為」についてのアムネスティ規定が見られます。)
 以上のような諸国の慣行を基礎にして、講和の法的効果としてのアムネスティを当然のものと認める国際慣習法の成立が確認されるのです。
こうして、第二次大戦以前には、平和条約中にアムネスティ条項が置かれなくても、講和がもたらすアムネスティ効果には変わりがないとの考えが一般的で、戦争犯罪の責任を負う者も、平和条約中に特別の例外規定がない限り、講和成立後に責任を追及されることがないというのが、(第一次大戦後のドイツに関連して一時的に変則的事態が起こりかけたにもかかわらず)国際法学界の通説でありました。


三 平和条約十一条の機能

 アムネスティ条項に関する以上の理解を前提とすれば、サンフランシスコ平和条約十一条の機能ないし役割は、おのずから明らかにされましょう。
すなわち、十一条が置かれた目的は、この規定がない場合に、講和成立により完全な独立を回復した日本の政府が、国際慣習法に従って、戦犯裁判判決の失効を確認した上で、連合国側が戦犯として拘禁していた人々を――刑死者の場合はいたし方ないが――すべて釈放するかまたは釈放することを要求するだろうと予想して、そのような事態の生起を阻止することにあったのです。
長い歴史を持つ国際法上の慣例に反した十一条の規定は、あくまでも自己の正義・合法の立場を独善的に顕示しようと欲した連合国側の根強い感情を反映したものと見られますが、平和条約草案を検討した昭和二十六年九月のサンフランシスコ会議では、連合国の間からも十一条に対し強力な反対論が噴出しました。
 要するに、十一条の規定は、日本政府による「刑の執行の停止」を阻止することを狙ったものに過ぎず、それ以上の何ものでもなかったのです。
日本政府は十一条の故に講和成立後も、東京裁判の「判決」中の「判決理由」の部分に示されたいわゆる東京裁判史観(日本悪玉史観)の正当性を認め続けるべき義務があるという一部の人々の主張には、まったく根拠がありません。
 筆者は昭和六十一年八月にソウルで開催された世界的な国際法学会〔ILA・国際法協会〕に出席して、各国のすぐれた国際法学者たちと十一条の解釈について話し合いましたが、アメリカのA・P・ルービン、カナダのE・コラス夫妻(夫人は裁判官)、オーストラリアのD・H・N・ジョンソン、西ドイツのG・レスなど当代一流の国際法学者たちが、いずれも右のような筆者の十一条解釈に賛意を表明されました。
議論し得た限りのすべての外国人学者が、「日本政府は、東京裁判については、連合国に代わり刑を執行する責任を負っただけで、講和成立後も、東京裁判の判決理由によって拘束されるなどということはない」と語りました。これが、世界の国際法学界の常識なのです。
 外国の学者の中には、裁判官の人的構成が違っていたら、違った判決理由となる得る可能性を強調する人もいました。
わが国の民事訴訟法一九九条一項は「確定判決ハ主文ニ包含スルモノニ限リ既判力ヲ有ス」と規定しています。
既判力とは、裁判の内容としての具体的判断が以後の訴訟において裁判所や当事者を拘束し、これに反する判断・主張を許されない効力をいいます。
右規定は文明諸国の「法の一般原則」を表していますが、この原則を重視する国際法学者もいたのです。
もちろん、戦犯裁判なるものは普通の司法裁判とは異なり、本質的に国家の戦争行為(軍事行動)の具現であり、アメリカに即していえば、大統領により行使が決定される行政権(戦争遂行権)の延長戦上にあるものと考えられ、司法裁判と同じレベルでの議論は適当ではないのですが、判決文中の判決理由は既判力を持ち得ないとの原則の一種の類推適用は妥当でありましょう。
 外国には「裁判官は判決理由を説明する義務を有しない」(Judices non tenentur exprimere causam sententiae suae)という法諺すらあって、判決理由がさまざまであり得る可能性を認めて、重要なのは事件の決着であり、刑事裁判でいえば、刑の宣告が緊要であって、判決主文中に宣告された刑の執行により一件落着をはかることが急務であるとの考え方を含蓄しています。
 対連合国平和条約の発効により国際法上の戦争状態を終結させて完全な独立を回復した日本の政府は、東京裁判の判決理由中に示された歴史観ないし歴史的事実認定 ――歴史の偽造(パール博士の言葉)として悪名が高い――を盲目的に受けいれる義務を負わず、いかなる批判や再評価をもその裁判や判決理由に下すことが自由であり、この自由こそが、講和を通じ代償を払って獲得した国家の「独立」の実質的意味なのです。
 戦後すでに四十余年〔平成七年では、五十年〕を経て、学界の研究成果は、東京裁判の判決理由中に示された史実とは異なる多くの真実(例えば、日本側共同謀議説の虚構性、判事・検事の立場にあったソ連こそ中立条約を侵犯した文字通りの侵略国であった事実など)を明らかにしています。
戦前、戦中、日本国家の対外行動の中には政治的に賢明でないものがあったかも知れません。
しかし、それをただちに実定国際法上の犯罪と誣いることは許されません。
近年わが国ではいわゆる“冤罪”事件について再審が行われ、あらためて無罪の判決が下される事例も少なくありませんが、上訴・再審の機会も与えられなかった復讐劇兼似而非裁判である東京裁判について、日本国民みずからの手で主体的再審を行って、日本民族にとり歴史の真実とは何であったのかを、先人ならびに児孫のために、明らかにしようではありませんか。

(佐藤和男監修『世界がさばく東京裁判』)



 サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約 Treaty of Peace with Japan)第11条の解釈は、上記の青山学院大学佐藤和男名誉教授昭和63年の論文で言い尽くされており、これ以上付け加える必要があるとは思いません。
(尚、2002年7月1日に発効した「国際刑事裁判所に関するローマ規程」第5条により「侵略の罪」が立法化されましたが、2007年9月12日現在に於て「侵略の罪」は具体的に定義されておらず、国際刑事裁判所の管轄権の行使も停止された状態にあり、「侵略の罪」は未だ理論上の存在に留まっています。)
 しかし、国会答弁の不完全な引用により、あくまでも東京裁判史観を日本は受入れたのだと強弁する人々が少なからず居ます。最近増加傾向にあるような観すらあります。
 そこで、同条文に関する国会答弁を改めて引用し、どのように論じられているかを確認していくことにします。
 なお、肩書きは全て発言当時のものです。

 まずは昭和26年10月17日衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会における西村熊雄條約局長の、平和条約各条文の解釈を国会会議録検索システムから引用します。

 第十一條は戦犯に関する規定であります。
戦犯に関しましては、平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない瀞は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。
従つて十一條はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第一段におきまして、日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を承諾いたすということになつております。
後段は内地において服役しております戦犯につきまして、日本が判決の執行の任に当るということと、こういう人たちの恩赦、釈放、減刑などに関する事柄は、日本政府の勧告に応じて、判決を下した連合国政府においてこれを行う、極東軍事裁判所の下した判決につきましては、連合国の過半数によつて決定する、こういう趣旨でございます。

従いまして第十一條後段の利益は、国外において服役中の戦犯者には適用ありません。
これは国民の一人としてまことに遺憾と思う次第でございまして、一日も早くわれわれの念願がかないまして、現在外地において服役しております約三百五十余名の同胞が、一日も早く内地服役になるように念願いたす次第であります。

 ここで示されている第11条の解釈は、アムネスティ条項阻止のためのもの、というまっとうな性質のものです。

「裁判を承諾いたす」と表現されていますが、これは判決が効力を有すると認める、という意味でしかありません。

 では次に、昭和26年11月14日法務委員会における大橋武夫法務総裁の発言を、部分的な抽出による誤解を避ける為、前後の質疑を含めて引用します。

○佐瀬委員 法務総裁に承つておきたいのです。
参議院でも所信を御披瀝になつたように承知しておりますが、この講和を機会に、これは国内犯罪を含めて、一般に恩赦の措置がいかように構想されておるか、簡単でけつこうでありますから、衆議院の法務委員会としてもこの際一応承つておきたいと思います。
○大橋国務大臣 恩赦のことにつきましては、かねて本会議においてもお答え申し上げましたる通り、何分にも今回の平和條約の締結ということが、日本といたしましては、被占領地でありましたものが独立をするという、歴史的にきわめて意義深い時期でございますので、この機会は恩赦法によるところの恩赦を行いますに、まことにふさわしい時期ではなかろうかと存ずるわけでございます。
そこで具体的な時期といたしましては、いよいよ現実に独立をする時期、すなわち講和條約の効力発生の時期をもつて恩赦の発動をいたすようにいたしたい、こう考えておるわけでございます。
この恩赦につきましては、法務府といたしましては、各般の準備を進めておる次第でございまするが、何分未曽有の有意義な機会でございますので、従来の先例等にとらわれることなく、広く受刑者に対して恩典を与えるようにいたしたい、この機会を真に国家再建のために有意議な機会たらしめるという方針のもとに、調査を進めておるような次第でございます。
特に戦時中あるいは戦後におきまする過渡的な時期に、いろいろな戦時的な立法が行われておりまするが、これらの法規は、この講和條約によりまして解消するものが大部分でございますが、こういう戦争遂行のための法規に触れて刑罰を受けておる、しかもその法規は今後において引続き存続せしめる必要がない、こうした廃止されるような戦時立法による刑余者につきましては、できるだけ大赦を行うというようなことが、適切ではないかと考えておるのであります。
なお受刑者の範囲につきましても、できるだけ広く考えておりますし、また恩赦の方法といたしましても大赦、特赦、減刑等、広く行うようにいたしたい。
ただいま当局において準備を進めておる次第であります。
 次に戦争犯罪その他外国の軍事法廷の裁判をわが国は平和條約第十一條によつて受諾をいたし、日本国内において拘禁されております日本国民に対する刑の執行は、今後日本政府が担当いたすことに相なるわけでございますが、この引継ぎは講和條約の発効によつて行われると存じます。
発効後におきましては、政府といたしましてはこの條約において日本政府に許されておりまするところの権限によりまする赦免、減刑、仮出獄等に対する、関係国政府に対する勧告権の行使に当りましては、十分に注意をいたしまして、でき得る限り国民のこれらの戦争犯罪者として処刑されておりまする者が早く釈放されますように、できる限りの努力をいたしたい、かように存じておる次第でございます。
 なお委員長ちよつと速記をとめて……。
○押谷委員長代理 速記をとめて。
    〔速記中止〕
○押谷委員長代理 速記を始めて。
○佐瀬委員 戦争犯罪及び犯罪人の法的性格というものが、ニユールンベルグ裁判及び東京裁判あるいは学界の論説等を通じて、今日相当論議されておるのであります。
一九四二年一月十三日の九連合国によつて発せられたセント・ジエームズ宮殿の宣言という有名なものがございます。
これによると、当時もつぱらドイツの戦犯を対象にして論議されたのでありますが、この宣言の結論として、戦犯は近代文明諸国の理解する意味における政治犯罪人であることを確信すると記載されておるのであります。
言いかえるならば、戦争犯罪は普通の犯罪にあらずして、政治犯罪であるというふうに性格づけられておるのであります。
元来政治犯罪については国内刑法において、また国際刑法において、特別に寛大な処遇をするというのが古今東西一致した原則であります。
国内刑法においては名誉拘禁制を採用するとか、あるいは国際刑法においては、政治犯罪が不当に処罰されないように、逃亡した場合庇護する庇護権があるとか、いろいろと寛大な処遇方法が政治犯罪人については講ぜられ、かつ制度化され、実施されて、今日に来ておるのであります。
私は講和を契機として、連合国がみずからかように解釈を下しておるこの戦争犯罪、すなわち政治犯罪であるという考えのもとに、でき得べくんば東京裁判における受刑者に対しては、極東国際軍事裁判所條例第十七條を活用されんことを連合国最高司令部に期待するとともに、せつかく平和條約第十一條において相当寛大な処置がなし得る道を開かれた今日において、政府が関係諸国と十分折衝されて、この二つの方法に基いて戦争犯罪人を、あげてわれわれとともに和解のための、しかして正義のための講和の祝福に均霑さしていただきたいということをこの際強く政府にも善処方を要望して、その点の質疑を終りたいと思います。
 次に平和條約第十一條の解釈に関連する問題でありますが、この條約によると、日本が極東裁判あるいは各地の戦争犯罪の軍事法廷において下された判決を受諾する、そして刑の執行について国内にある受刑者を担任するということになつておるわけでありますが、この判決受諾という意味が多少あいまいな点があるように見受けるのであります。
申し上げるまでもなく、裁判というものは法を大前提として、また事実を小前提として三段論法で結論つけられた判決主文によつて構成されております。
ところが戦争犯罪に適用さるべき法そのものについて、あるいは軍律あり、あるいは成文化された国際條約あり、あるいは国際慣習ありで、なかなかこの法自体が捕捉しがたいものがあるのであります。
しかして事実については、外地における戦争犯罪、特に俘虜虐待とかいうような事柄になりますると、言語の関係あるいは弁護の不十分等いろいろな点からして、事実を証拠上確定することがきわめて困難であるにもかかわらず、そういう法に基いて、またそういう事実のとらえ方に基いて、死刑に、あるいは無期、あるいは有期の懲役に処されておるというのが戦犯裁判の実相であります。
そこでこの條約十一條のその判決を受諾するという意味は、そういう法やまた事実等の前提とされた事柄をも全部含めて、裁判全体として日本がそれを承認する意味であるのか、あるいはさにあらずして単に有期懲役あるいは無期懲役というようなものに処せられたその結論的な主文だけを日本が承認して、その刑の執行を連合国にかわつて、あるいは委任に基いて、あるいは委譲に基いてそれの執行の任に当るにすぎないのかどうか。
もし法や事実の認定についてもこれが日本政府として受諾するということであると、いわゆる再審すること、すなわち再び調べ直しをするということは、これは除外され、出来ないということにもなるように考えられ、もしまたそうでないとするならば、あるいはこれに対する再審なり、あるいは異議の申立てとかいつたような、さらに根本的に救済する道がなおそこに許されておるやにも思われるが、どうか。
御承知のように平和條約第十七條ですか、これには外人に対する日本裁判が戦時中粗雑であつたために、再審制度を設けて日本が審理し直すということが約定されております。私はひとり外人に限らず、正義の前には日本人も差別する必要はないと思う。
従つてもし十七條の精神がこの場合に振りかえられるならば、十一條の場合について日本として考えるべく、あるいはこの條約自体について解決されないならば、将来の外交交渉なり折衝によつてそういう救済の道がなお開かれる余地があるのではないかというふうにも考えるので、政府としてはこの十一條の判決受諾という意味を、現在においてはいかように考えられておるか。またもしそういう再審制度が将来交渉によつて設けられる余地があるように見通されておるのであるかどうかということについて、政府の所見を承つておきたいのであります。
○大橋国務大臣 極東軍事法廷あるいは連合国の戦争犯罪法廷におきまする裁判というものは、これは申すまでもなく日本の法律による裁判ではないのであります。
従いましてまたそれのみならず、これらの犯罪とせられておりまする行為そのものも、あるいは国際法上の通念により、あるいは人道上の理由によつて犯罪とせられておるものとは思いますが、しかし国内法によるところの犯罪と目すべきものでは、いかなる意味においてもない。
実質上は国内法において犯罪とする事柄と同じような非人道的な活動はあつたかもしれません。
しかしそれが国内法による犯罪ではないということは、これは争う余地がない。
しかしながら第十一條におきましては、これらの裁判につきまして、日本国政府といたしましては、その裁判の効果というものを受諾する。
この裁判がある事実に対してある効果を定め、その法律効果というものについては、これは確定のものとして受入れるという意味であると考えるわけであります。
従いまして今後これらの受刑者に対する刑の執行にあたりまして、日本政府が日本の裁判所あるいは行政手続によつてその判決の内容を再審査するというようなことは考えられないと思います。
一応確定の裁判としてこれを受諾する。但しこの確定の裁判の執行にあたりましては、條約においても明らかにせられておりまするごとく、赦免、減刑、仮出獄等のごとき執行上の行政的措置は可能なのでございまして、この行政的措置につきましては、日本政府において勧告の権限があり、関係国政府の決定によつてかような行政措置が決定される、こういうことに相なつておりますから、政府といたしましては、今後刑の執行にあたりましては、十分に裁判の経緯等も調査をいたしまして、そうして必要なものに対しましては、これらの赦免、減刑、仮出獄等に対して日本政府に認められたる勧告権を十分に活用することによりまして、でき得る限り合理的なる結果を期待をいたすとともに、なるべくすみやかに多数の人々が、この法文から、釈放されるように努力をいたしたい、こう考える次第であります。
○佐瀬委員 法務総裁にもう一、二点簡単にお伺いしておきたいのですが、この受諾の効果としては、日本の国内法上犯罪人としては処分しないという御趣旨のように拝聴したのです。
従つて日本の国内法においてただ行刑の部門だけを担任されて、その他の国内法の上からは、たとえば前科とかその他いろいろな取扱いについては何らこれを考えないということに結論は相なつておるのであります。そこでそういう受入れ方について政府は何か立法上の用意をなされておるかどうか、その点を承つてみたいと思います。
○大橋国務大臣 行刑の面についての政府の責任がきめられておるのであります。
これが国内法上の一般犯罪と同様な前科であるとか、そうした日本の国内裁判に伴う当然ないろいろな効果というものは、この裁判には伴わないものと考えるわけであります。
従つてなお御質問になりましたこの刑の執行、赦免等については、これは国内法上の裁判の執行について規定いたしておりまする現在の監獄法その他の行刑法規をもつて律すべきではないと考えますので、これにつきましては特別の立法によつて諸般の規律を定めたい、こう考えるわけです。
この法案につきましては、ただいま事務当局においてある程度の成案を得まして関係当局と折衝中でありまして、なるべく早い機会に御審議を煩わしたいと存じます。
○佐瀬委員 それから十一條にいう赦免その他の取扱いをするために、各連合国の決定なり政府の勧告なりが同時に必要とされておるわけでありますが、何かそういうことをきわめて迅速にかつ合理的に進行せしめるために、国際的な特別な機関でも設置されたならばよいのではないかというふうにもわれわれ考えるのおります。
この点については今政府はどういうお考えをお持ちになつておられるか、あわせてこの点も承知しておきたいと思います。
○大橋国務大臣 これはなお決定的な考えという段階には至つておりません。
しかし寄り寄り内部において話合いをいたしておりますところを申し上げますと、この刑の執行につき、ことに刑の執行に伴いまする赦免、減刑、仮釈放等の日本政府の勧告権を行使いたしまするその基礎的事実を調査する機関として、国内において何らか委員会の、ごときものを設けることが適当ではなかろうか、こう考えております。
なお日本政府の勧告権が通常の外交上の手続によつて行われまするということは、これは行使につきましていろいろ不便もございますので、何らか便宜な方法によりまして、一つの国際的な委員会のごときものができて、そこにおいて簡易迅速に関係各国の決定が処理されるというふうなことはきわめて望ましいものである、こう考えまして、さような方法に向つて努力をいたしたいと考えております。
○佐瀬委員 私もその点はきわめて同感でありますが、こういう司法事務については、今日の国際関係を見ると、一般外交事務と分離して、いわゆる司法協定を締結して、これを中心に委員会その他の機構を設置して、そうして司法交渉という簡易な手続をとるのが、最近の例になつておるようにわれわれ承知しておりますが、どうか政府はその点に御善処を賜わりたいと思います。
 もう一点お伺いしておきたいのは、国外にある受刑者はこの條約からは一応除外されております。
しかしこれは條約発効のときに日本内地にある者のみを限定してこれを対象として規定したものであるか、あるいは将来引続いて條約発効後といえども、日本に何らかの形で帰られた者はやはり十一條の適用を受けるものであるかどうかということについて、私どもは疑問を持つのでありますが、しかし第十一條の精神からいうならば、やはりその適用のときに国内にある者であるならば、すべてこの処遇を与えせしめていいものであるというふうに私個人は考えるのであります。
従つてでき得べくんば発効前に国外にある者を内地に帰還させるということも必要であると同時に、発効後といえども、外地にある日本の戦犯者を日本に帰還せしめるように努力されるということが政府に強く要望されることであると思うのでありますが、この点についてどういう御構想で臨んでおられるか、ここに明確にしておいていただきたい、かように考えます。
○大橋国務大臣 佐瀬委員のお述べになりました点につきましては、政府といたしましてはまつたく同感でございまして、この條項は條約発効の際にすでに国内に帰還をいたしておりました者について適用あるばかりでなく、その後においても、帰還した後においては、当然十一條の適用があるものと考えておるのであります。従いまして政府といたしましては、今後におきましても機会あるごとに、なるべく日本国民が外国において刑の執行を受けることなく、できるだけ故国に帰つて刑の執行を受けることのできますように、あらゆる努力をいたしたいと思うわけであります。

大橋総裁の答弁は、事実認定と法律効果を分別し、裁判の法律効果を受入れることが裁判を受諾するということの意味だと述べています。
そして「この確定の裁判の執行」という表現で、裁判を受諾するとは刑を執行することだと述べています。
 これは刑事訴訟法第7編における「裁判の執行」と同じ用法です。


 次は時代を下って、昭和61年8月19日衆議院内閣委員会後藤田官房長官の答弁です。

○柴田(睦)委員 現在の段階ではそれ以上の答弁が出ないようでありますので、それはまた後日にいたしまして、次に、靖国公式参拝の問題についてお伺いいたします。
 中曽根総理は、昨年は政府見解まで転換いたしまして公式参拝をやったわけですが、ことしは内外の批判が強いということから、総理自身の公式参拝はやめられました。
官房長官談話では「差し控えることとした。」ということになっております。
しかし、十六人の閣僚が参拝いたしましたし、その中には公式参拝であるということをはっきり言われる閣僚もおられる、また、公式参拝を強行する根拠になりました昨年の官房長官談話、これは存続しているんだ、こう言明しておられるということなど、いろいろ対応に矛盾があらわれているというように思います。
これは結局は国内外の批判、とりわけアジア諸国民からの批判をかわすといいますか、総理はやめるけれども、ほかの閣僚は公式参拝はいいんだというようなことで、言葉は悪いけれども、小細工をやっているのじゃないかと思うわけであります。
 問題は、談話に言われておりますようにA級戦犯だけの問題ではないと思うわけです。
外国の昨年の公式参拝に対する論評を見てみましても、例えば英国のBBCテレビは、「中曽根総理の靖国公式参拝は、日本が第二次大戦のことをもはや恥じないという姿勢を示したもの」、こういう論評がありますし、中国の新華社通信は、「公式参拝は、日本軍国主義が起こした侵略戦争の性質をあいまいにし、中国人民とアジア各国人民の感情を傷つけるものである。
また、この公式参拝は、日本軍国主義の名誉回復を図ろうとする思潮に迎合し、これを助長するものである。」こういう趣旨の論評が実際は出ているわけであります。
こういう国際的な批判があるわけですから、今度のやり方によってこの国際的批判を納得させる、こういうことはできませんし、こういうことをやっていれば、ますますこの国際的な批判も広がるものであると思うわけであります。
 問題の原点というのは、結局、さきの戦争をどう認識し、どう反省し、二度とこうした過ちを繰り返さないかということであるわけであります。言うまでもありませんが、さきの戦争というのは、日本の絶対主義的天皇制下の軍国主義が日本国民を侵略戦争に巻き込んで、アジアと世界の国民にはかり知れない損害、被害を与えた侵略戦争であった、これは歴史的に否定できない事実だと思うわけであります。
 そこで官房長官にお伺いをしますが、さきの戦争についての政府の認識と責任について御見解、所見を伺いたいと思います。
○後藤田国務大臣 第二次大戦における我が国の行為について、これが侵略であるという厳しい国際的な批判、これを受けておることは事実でございまして、その事実は政府としては認識をする必要があるであろう。
したがって、私どもとしてはこういった事実を踏まえまして、二度とこういったことのないように心がけていかなければならない、こう考えているわけでございます。
○柴田(睦)委員 侵略戦争であったということを政府としても、結局、今の日本国憲法に、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意する」と前文にちゃんとうたってありますし、また平和条約においても、「武力による威嚇又は武力の行使は、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、慎む」ということをうたっているわけであります。
そういう点から、第二次大戦における我が国の立場というものは非常にはっきりしていると思うわけであります。
 そこで、さきの侵略戦争の認識に関連する問題ですけれども、A級戦犯の問題があります。
長官談話の中で、昨年の公式参拝がA級戦犯に対して礼拝したのではないかという批判が近隣諸国からあるということを述べておられます。
この批判は近隣諸国だけにあるのではなくて日本国内にももちろんあるわけですが、このA級戦犯というのは、戦後、極東軍事裁判、いわゆる東京裁判で下されたものであるわけであります。
 政府は、この東京裁判の判決についてどのように認識しておられるのか、お伺いいたします。
○後藤田国務大臣 東京裁判については、柴田さん御案内のようにいろいろな意見があるのでございます。
しかし、私どもといたしましては、サンフランシスコ平和条約のたしか十一条であったと思いますが、国と国との関係においては日本政府はこの極東裁判を受諾しておるという事実があるわけでございます。したがって、やはり我々はこの極東裁判の結果というものについても受諾をいたしておる、かように理解すべきであろう、こう思います。
○柴田(睦)委員 確認になりますけれども、そうしますと、今の御見解は中曽根内閣としての統一した見解であるというふうに承ってよろしゅうございますか。
○後藤田国務大臣 これは平和条約そのものの中に明記をしてあることでございますので、さように御理解していただいて結構だと思います。
○柴田(睦)委員 そうしますと、中曽根内閣の一員であります藤尾文部大臣が十五日の閣議後の記者会見で、東京裁判を正当と認めていないという見解を述べておられます。これは中曽根内閣としての見解と矛盾するのではないかと思いますが、官房長官いかがでしょうか。
○後藤田国務大臣 私も新聞紙上でそういう記事は拝見をいたしました。しかしながら、どういった質疑応答の中で、どういった雰囲気で新聞記事にあるような御発言をなさったのかは私は承知をいたしておりませんので、こういった席上で藤尾さんの発言についてとやかく申し上げる事由が私は現時点においてはございませんので、その点は御理解いただきたいと思います。

この答弁は中曽根首相靖国公式参拝中止騒動の中で行われたものという状況認識がなければ、正しく理解できないでしょう。
 後藤田官房長官の発言は、平和条約に定められているので、外交上、政府は東京裁判に異議を唱えない、というものであり、あくまでも東京裁判に限定されたものです。
 いろいろな意見がある、という表現からも分かるとおり、共産党の柴田睦夫議員の見解を受入れているわけではありません。東京裁判という、戦犯とされた個人を裁いた軍事裁判から離れて、東京裁判史観を受入れなければならないという趣旨は皆無です。

 次は平成10年3月25日参院予算委員会における竹内行夫外務省条約局長の答弁です。

○板垣正君 外務大臣、東京裁判についての御見解を承りたいと思います。
○国務大臣(小渕恵三君) この裁判につきましては、既に諸外国におきましても、学者の間でも裁判をめぐる法的な諸問題につきましては種々議論があることは承知をいたしております。いずれにしても、国と国との関係において我が国はサンフランシスコ平和条約第十一条で極東軍事裁判所の裁判を受諾いたしておりますので、同裁判について異議を唱える立場にはありません。
 ただ、私自身も総理と全く同じ世代に育ってきたわけでございます。特に、終戦後の小学校時代に、ニュース放送等を聞けばこの問題について触れられておったわけでございます。
したがいまして、今日に至りましても、八月十五日等にこの裁判の問題の記録並びに映画等が再放送されるたびに、真剣にこれを見詰めながらみずからこの問題について真剣に考えてまいりたい、このように考えております。
○板垣正君 この東京裁判の問題については、外務大臣は御記憶かどうかわかりませんが、もう十年ぐらい前、決算委員会で御見解を承ったことがあります。
そのときの御答弁並びにそのときの外務大臣あるいは内閣法制局長官、まさに一致した御答弁でございました。
また、十年経たただいまの御見解も、つまり講和条約第十一条によってあの裁判を日本は受諾したんだ、だからこれを批判する立場にない、ある意味ではそれに拘束されるんだと、こういうことになるんじゃないでしょうか。
ここに大きな問題点があると思いますが、この点についての総理の御見解を承ります。
○国務大臣(橋本龍太郎君) 今改めてサンフランシスコ平和条約第十一条を眺め直しております。
 ここにはこうあります。
 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。
これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。
極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。
 我が国は、確かにこの条文を含んだ条約によって独立をかち得ました。
極東裁判というものには学者の中においてもいろんな議論がありますし、また学者とは違った立場の方々からも御論議があることは、これは私自身も承知をいたしております。
 しかし、国と国との関係ということになりますと、私は、外務大臣がお答えを申し上げましたように、サンフランシスコ平和条約の第十一条によってこの極東国際軍事裁判所の裁判を受諾している、その上で独立を回復してきた。そうなりましたときに、この裁判に対して国と国との関係におきまして異議を述べる立場にはないという外務大臣の御答弁は、政府としては同様の見解を公式にお尋ねがあれば述べるということにとどまると存じます。
○板垣正君 重ねて外務大臣、この条約は当時から解釈をめぐって、講和条約におけるほかの国からもこうしたものはない方がいいじゃないかと言われていたくらい問題の条項であります。
 講和条約が結ばれたにかかわらず、まだ千名を超えるいわゆる戦犯と称する人たちが巣鴨にも豪州にもフィリピンにも、中には死刑の判決を受けたまま置かれておった。
3元来、講和条約が結ばれればそうした者は全部釈放されるのが当然であります。
にもかかわらず、十一条を設けてまだ捕まえておく。
刑を執行するのは日本の責任でやれ、これが十一条の本旨じゃありませんか。
ほかの国の条約の正文によって、今読まれましたけれども、判決を受諾すると。これがイギリスなりあるいはスペインなりフランスの原文にはそうなっている。
我が国がどういうわけか裁判を受諾すると訳され、かつ今のような、まさに戦後五十年なおこれに縛られているんだというような、世界の常識とも国民の多くの考えとも隔絶した枠の中に今なお縛られているというのはいささか問題があるんじゃないですか。
大いに問題があるんじゃないですか。その点、重ねて見解を承ります。
○政府委員(竹内行夫君) サンフランシスコ平和条約におきます用語の問題に関しまして御答弁申し上げます。
 確かに先生おっしゃいますとおり、英語文でジャッジメントという言葉が使われておりまして、これを通常は裁判という文言を当てる場合と判決という文言を当てる場合がございますけれども、いずれの場合におきましても特段の意味の差があるとはこの場合におきましては考えておりません。
 この極東国際軍事裁判所の裁判を例にとりますと、裁判の内容、すなわちジャッジメントは三部から構成されておりまして、この中に裁判所の設立及び審理、法──法律でございますけれども、侵略とか起訴状の訴因についての認定、それから判定、これはバーディクトという言葉を使っておりますけれども、及び刑の宣言、センテンスという言葉でございますけれども、こういうことが書かれておりまして、裁判という場合にはこのすべてを包含しております。
 平和条約第十一条の受諾というものが、単に刑の言い渡し、センテンスだけを受諾したものではない、そういう主張には根拠がなかろうと言わざるを得ないというのが従来政府から申し上げているところでございますことは、先生も御承知のとおりでございます。

 ちょっと分かり難い言い回しですが、国会会議録検索システムから検索されたこの記録をそのまま読めば、ジャッジメントは刑の宣告だけを意味する言葉ではないが、第11条の受諾は刑の言い渡しだけを受諾したものではないという主張には根拠がない、イコール、第11条の受諾は刑の言い渡しを受諾したものだという意味になります。
 前後の発言がちぐはぐな印象がありますが、これが竹内条約局長の答弁です。
 尚、この「ジャッジメントは刑の宣告だけを意味する言葉ではない」という解釈についても検討を加えておきましょう。
 極東国際軍事裁判所条例(Charter of the International Military Tribunal for the Far East)において、judgmentは次のように用いられ、次のように訳されています。
(訳は三省堂『解説 条約集』から引用しています)

Article 15. Course of Trial Proceedings. The proceedings the Trial will take the following course:
第15条(裁判手続の進行)
 本裁判に於ける手続は、左記の過程を経べきものとす。

(h) The Tribunal will deliver judgment and pronounce sentence.
(チ)裁判所は、有罪無罪の判決を下し、刑を宣告す。

Article 17. Judgment and Review. The judgment will be announced in open court and will give the reasons on which it is based. The record of the trial will be transmitted directly to the Supreme Commander for the Allied Powers for his action thereon. A sentence will be carried out in accordance with the order of the Supreme Commander for the Allied Powers, who may at any time reduce or otherwise alter the sentence except to increase its severity.
第17条(判決及び審査)
 判決は、公開の法廷に於て宣言せらるべく、且つ之に判決理由を附すべし。裁判の記録は、速やかに連合国軍最高司令官に対し審査を受くる為め送付せらるべし。
宣告刑は、連合国軍最高司令官の指令に従ひ執行せらるべく、連合国軍最高司令官は、何時にても宣告刑に付、之を軽減し、又は刑を加重せざる限り其の他の変更を加ふることを得。


 このように、裁判所条例においては、"judgment"は「判決」の意味で用いられています。そして判決理由は判決に含まれるものではなく、判決に添附されるべき別個のものと定められています。
 後で採り上げますが、平成17年6月2日の林景一国際法局長の答弁では、
「重要なことはそのジャッジメントというものの中身でございまして、これは実際、裁判の結論におきまして、ウェッブ裁判長の方からこのジャッジメントを読み上げる、このジャッジ、正にそのジャッジメントを受け入れたということでございますけれども」
と前置きをして竹内条約局長の答弁が踏襲されています。
 しかし、裁判所条例を読めば分かるとおり、判決は判決理由を添附して読み上げなければならないと定められており、ウェッブはこの裁判所条例の規定に従って、判決(ジャッジメント)と判決理由を一緒に読み上げただけなのです。
 東京裁判の手続きは裁判所条例に従うことを義務づけられていました。
そして、裁判所条例に於て判決(ジャッジメント)と判決理由は別のものと規定されていました。
 判決(ジャッジメント)と一緒に判決理由が読み上げられたからと言って、平和条約第11条で受諾したjudgmentsに判決理由が含まれるという解釈は、少なくとも東京裁判について言えば、適切な解釈とは言えないでしょう。

 ついでですから、この答弁に続く板垣議員の発言も付け加えておきましょう

○板垣正君 それでは、私はこの歴史の流れをまさに顧みる意味において、この国会において我々の先輩議員がこの問題についてどういう姿勢をとられたか、どういう政治見識と信念を示されたか、このことについて記録に基づいて申し上げたいと思う。
 今申し上げたような千何百名も講和条約ができても拘束されていることに対しては、まず国民的な運動が起こり、四千万と言われる署名運動が寄せられ、釈放すべきだ、解放すべきだと。
こういうものを受けまして国会で決議が行われております。
 講和条約が締結されたのは昭和二十七年ですね。二十七年の十二月九日、第十五回国会、まず衆議院において当時の田子一民議員外五十八名、当時の自由党、改進党、左右両派社会党、無所属倶楽部の共同提案による次のような戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議が圧倒的多数で可決された。
独立後既に半歳、しかも戦争による受刑者として内外に拘禁中の者はなお相当の数がある、たえがたい、釈放すべきだというのが国会決議でありますが、この提案の趣旨説明に立った田子一民議員が、およそ戦争犯罪の処罰につきましては、極東国際軍事裁判所インド代表パール判事によりまして有力な反対がなされ、また東京裁判の弁護人全員の名におきましてマツカーサー元帥に対し提出いたしました覚書を見ますれば、裁判は不公正である、その裁判は証拠に基かない、有罪は容疑の余地があるという以上には立証されなかつたとあります。
 さらに、これは御存じの方もおられると思いますが、改進党の山下春江議員もこの趣旨説明について本会議で、
 占領中、戦犯裁判の実相は、ことさらに隠蔽されまして、その真相を報道したり、あるいはこれを批判することは、かたく禁ぜられて参りました。当時報道されましたものは、裁判がいかに公平に行われ、戦争犯罪者はいかに正義人道に反した不逞残虐の徒であり、正義人道の敵として憎むべきものであるかという、一方的の宣伝のみでございました。また外地におきまする戦犯裁判の模様などは、ほとんど内地には伝えられておりませんでした。
国民の敗戦による虚脱状態に乗じまして、その宣伝は巧妙をきわめたものでありまして、今でも一部国民の中には、その宣伝から抜け切れないで、何だか戦犯者に対して割切れない気持を抱いている者が決して少くないのであります。
  戦犯裁判は、正義と人道の名において、今回初めて行われたものであります。
しかもそれは、勝つた者が負けた者をさばくという一方的な裁判として行われたのであります。
戦犯裁判の従来の国際法の諸原則に反して、しかもフランス革命以来人権保障の根本的要件であり、現在文明諸国の基本的刑法原理である罪刑法定主義を無視いたしまして、犯罪を事後において規定し、その上、勝者が敗者に対して一方的にこれを裁判したということは、たといそれが公正なる裁判であつたといたしましても、それは文明の逆転であり、法律の権威を失墜せしめた、ぬぐうべからざる文明の汚辱であると申さなければならないのであります。
 まさに独立を回復した本会議において、戦犯釈放という決議ではありますけれども、ここに込められた思いは、勝者の一方的な断罪に対するまさに国民の叫びであり、国政の場における叫びではありませんか。
 これは与党だけではない、当時の社会党議員による批判も行われている。
決議採択に際し、日本社会党の古屋貞雄議員は、戦争が残虐であるということを前提として考えますときに、はたして敗戦国の人々に対してのみ戦争の犯罪責任を追及するということ──言いかえまするならば、戦勝国におきましても戦争に対する犯罪責任があるはずであります。
しかるに、敗戦国にのみ戦争犯罪の責任を追及するということは、正義の立場から考えましても、基本人権尊重の立場から考えましても、公平な観点から考えましても、私は断じて承服できないところであります。
世界の残虐な歴史の中に、最も忘れることのできない歴史の一ページを創造いたしましたものは、すなわち広島における、あるいは長崎における、あの残虐な行為であつて、われわれはこれを忘れることはできません。
この世界人類の中で最も残虐であつた広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば問題にならぬような理由をもつて戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。
 こうした決議のもとに努力が続けられましたけれども、最終的にいわゆるB・C級戦犯の最後の方が釈放されたのは昭和三十三年に至るわけであります。
(以下省略)


次に平成17年6月2日参議院外交防衛委員会における林景一国際法局長の答弁です。

○山谷えり子君 東京裁判、そして各国で行われた戦争犯罪者を裁く裁判は、不当な事実認定もこれあり、十分な弁護権も陳述権も保障されず、罪刑法定主義を無視した、近代国家の裁判とは言えないものではなかったかと多くの国民が考えているのも事実でございます。
一九九八年成立した国際刑事裁判所設立条約では、平和に対する罪と同様の犯罪を条約にまとめることができませんでした。
しかし、それはそれとして、日本はこの裁判で九百九十名の方が命をささげられました。
 我が国は、昭和二十六年、東京裁判、そして各国で行われた戦争犯罪者を裁く裁判を受け入れ、サンフランシスコ講和条約を締結、平和条約十一条において日本国が戦争裁判を受諾し、その意味で再審はできません。
しかし、また今、様々な経緯と情報公開によって、何とか主体的再審を行えないか、歴史解釈権を取り戻して平和外交をしたいという国民の声もまたあるわけでございます。
 日本は東京裁判の判決を受け入れましたが、英文の「ジャパン アクセプツ ザ ジャッジメンツ」の、法律用語ではこれは判決の意味で、フランス語、スペイン語においても、この単語の意味、言語学的には裁判ではなく判決と読めるそうでございます。
 日本は裁判の判決を受け入れていますが、日本側共同謀議説などの判決理由、東京裁判史観を正当なものとして受け入れたのか、また、罪刑法定主義を無視し、今日でも概念が国際的に決まらない平和に対する罪で裁かれたことを受け入れたのか、国民の間に混乱があると思いますが、分かりやすく御説明ください。
○政府参考人(林景一君) お答えいたします。
 先生も今御指摘のとおり、サンフランシスコ平和条約第十一条によりまして、我が国は極東国際軍事裁判所その他各国で行われました軍事裁判につきまして、そのジャッジメントを受諾しておるわけでございます。
 このジャッジメントの訳語につきまして、裁判というのが適当ではないんではないかというような御指摘かとも思いますけれども、これは裁判という訳語が正文に準ずるものとして締約国の間で承認されておりますので、これはそういうものとして受け止めるしかないかと思います。
 ただ、重要なことはそのジャッジメントというものの中身でございまして、これは実際、裁判の結論におきまして、ウェッブ裁判長の方からこのジャッジメントを読み上げる、このジャッジ、正にそのジャッジメントを受け入れたということでございますけれども、そのジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれているというふうに考えております。
 したがって、私どもといたしましては、我が国は、この受諾ということによりまして、その個々の事実認識等につきまして積極的にこれを肯定、あるいは積極的に評価するという立場に立つかどうかということは別にいたしまして、少なくともこの裁判について不法、不当なものとして異議を述べる立場にはないというのが従来から一貫して申し上げていることでございます。


竹内条約局長の答弁で分かり難かった点が整理された答弁だと思います。
 ジャッジメントとは裁判長が読み上げた判決文の中に含まれている全ての文書だが(既に検証したとおり、この解釈が適切でないことは裁判所条例から明らかだと思います)、その中の事実認識を肯定するかどうかは別にして、講和条約で解決済みである以上、判決そのものに異議を唱えることが出来ないだけでなく、裁判所条例や判決文に添附された判決理由の不当なることを根拠に、裁判について異議を述べることはできないというのが政府の立場で、これは従来から変っていないということです。
 佐藤教授の論文にもあるとおり、東京裁判などの戦犯裁判は連合国が戦争行為として遂行したものです。
そして講和条約の締結・履行によって戦争行為は一切不問となります。
講和条約を締結した後に、戦争行為について国家間で問題にするのは文明社会の慣習に反する野蛮な行為です。
講和条約を締結した以上、東京裁判他の戦犯裁判という戦争行為についても異議を唱えることが出来ないのは仕方のないことです。
 但しそれは、裁判という既に起った出来事そのものについてであって、それ以上の拘束力がないのは当然でしょう。

 次は野田佳彦議員が平成十八年六月六日に提出した『サンフランシスコ平和条約第十一条の解釈ならびに「A級戦犯」への追悼行為に関する質問主意書』に対する小泉総理の答弁を引用します。
 この答弁は平成十七年十月十七日提出『「戦犯」に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問主意書』と一連のものですが、内容が重複しますのでより明確な回答があったこちらの答弁書を採り上げることにします。

質問
一 サンフランシスコ平和条約第十一条の解釈について
1 先の質問主意書でも示したように、昭和二十六年に西村熊雄外務省条約局長が「日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を受諾いたすということになつております」と答弁し、大橋武夫法務総裁は「裁判の効果というものを受諾する。
この裁判がある事実に対してある効果を定め、その法律効果というものについては、これは確定のものとして受入れるという意味であると考える」と答弁しているのに対し、昭和六十一年に後藤田正晴官房長官は「裁判を受け入れた」という見解を表している。
 「諸判決・裁判の効果を受諾する」といった場合、裁判の内容や正当性については受け入れないが、その「裁判の効果」については受け入れたと解釈できる。
 「裁判を受諾する」といった場合は、「南京大虐殺二十数万」「日本のソ連侵攻」などの虚構や、日本は満州事変以来一貫して侵略戦争を行なっていたという歴史解釈、法の不遡及や罪刑法定主義が保証されていない点などがあるにもかかわらず、裁判の正当性を全部受け入れたと解釈できる。
 政府は、西村熊雄外務省条約局長ならびに大橋武夫法務総裁の「判決を受諾する」「裁判の効果というものを受諾する」という答弁と、後藤田正晴官房長官の「裁判を受け入れた」という答弁とでは、意味にいかなる相違があると考えているのか。
2 1において、昭和二十六年の西村熊雄外務省条約局長ならびに大橋武夫法務総裁の見解と昭和六十一年の後藤田正晴官房長官の見解に意味の相違があるのならば、先の答弁書における「このように、我が国は、極東国際軍事裁判所等の裁判を受諾しており、国と国との関係において、同裁判について異議を述べる立場にはない。
政府としては、かかる立場を従来から表明しているところである」という回答と矛盾する。政府は、昭和二十六年から現在にいたるまでに、いつ、いかなる理由により見解を変えたのか。昭和二十六年の見解と昭和六十一年の見解が異なる理由をあらためて問う。

答弁
一の1及び2について
 極東国際軍事裁判所の裁判については、法的な諸問題に関して種々の議論があることは承知しているが、我が国は、日本国との平和条約(昭和二十七年条約第五号。以下「平和条約」という。)第十一条により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾している。
御指摘の答弁はいずれも、この趣旨を述べたものであり、その意味において相違はない。


小泉総理の答弁は、昭和二十六年の西村熊雄外務省条約局長ならびに大橋武夫法務総裁の見解から政府の見解に変化無しというものです。
 つまり、裁判の受諾とは、裁判の効果を受諾したという意味になります。

 最後に、時間が前後しますが、衆議院会議録から、平成十八年二月十四日衆議院予算委員会における麻生外務大臣及び安倍官房長官の答弁を引用してみましょう。
 岡田克也議員の粘着ぶりには頭が痛くなってくるんですが。


○岡田委員 今、麻生大臣もそして安倍官房長官も、はっきりとこれは歴史家の判断にまつべきだと言われました。この点については、後ほどまたぜひ議論したいと思います。
私は、そうではないという考え方を持っております。
 それでは次に、東京裁判についてどういうふうにお考えなのか、今度は外務大臣にお願いします。
○麻生国務大臣 東京裁判に関してのいわゆる外相の見解やいかにということなんだと思いますが、少なくともこの極東軍事裁判というものなんだと思いますが、これにつきましてどういうような考えを持っておるかという御質問ですか。
 どういう考えを持っているか。
少なくともこの極東軍事裁判所におきましては、被告人が平和に対する罪によって犯罪を犯したとして有罪判決を受けたということが事実なんだと思っておりますが、どういう感想を持っておられるかという意味がちょっとよくわからないんですが、この戦争、意味、あれにつきましては、そういう意味です。
そして、それが、サンフランシスコ平和条約第十条だか十一条だったかと記憶しますが、それによりましてこの極東軍事裁判というものの裁判を受諾しておりますということもまた事実だと思いますので、それだけです。
○岡田委員 官房長官はいかがですか。
○安倍国務大臣 極東国際軍事裁判所において、被告人は基本的に平和に対する罪、そして人道に対する罪で取り調べを受けたわけであります。
いわゆるナチスの戦争犯罪人の人たちは人道に対する罪でも有罪であったわけでありますが、あの東京国際軍事法廷においても、日本は人道に対する罪においては有罪にはなっていないというわけであります。
それをまず踏まえておく必要があると思うんですが、そして、いわゆる平和に対する罪において有罪の判決を受けたということでございます。
 日本は、このサンフランシスコ平和条約の第十一条により、極東国際軍事裁判所のいわゆるジャッジメンツを受諾しているわけであって、この裁判について異議を述べる立場にはない。
異議を述べる立場にはないということでございますが、それ以上のものでもそれ以下のものでもない、こういうことではないか、こういうふうに思います。
 ただ、誤解している方々がおられて、アカデミックな分野、または一般の国民がこれについていろいろな議論、研究をすることもいけないと思っている人たちがいるんだと思うんですが、そんなことは全くないわけであって、政府として、あの裁判は間違っているから例えば損害賠償を請求する、そういうことはしない、こういうことではないだろうかと私は思っております。
○岡田委員 私もいつか国会の場で述べたことがあると思いますが、東京裁判そのものに対して、一〇〇%これをこれでいいという気持ちは私も持っておりません。
やはり勝者が敗者を裁いた戦争だという側面もあるし、あるいは、そのときになかった罪がつくられて裁かれたという部分もありますから、これを一〇〇%私は何の疑問もなく受け入れるという立場には立っておりませんが、しかし、東京裁判というものを日本国政府が受け入れた、こういうことでありますから、これを、東京裁判そのものが意味がなかったとか、そもそも無効である、こういう立場というのは、私は当然そういう立場には立っていないわけであります。
 安倍長官に一言だけ確認しておきますが、前回この予算委員会の場で同じ東京裁判の議論が出た折に、これは末松委員だったと思いますが、東京裁判のジャッジメントを受諾したという言い方をされたと思うんですが、これは東京裁判ということと意味が違うんですか。
○安倍国務大臣 いわゆる正文は英語でございますので、正文の英語の部分についてはジャッジメンツになっているということでございまして、日本において種々議論がございますので、この英文にのっとって、いわゆる正文についてそう申し上げたわけでございます。
○岡田委員 そうすると、官房長官は、東京裁判を受諾したという考え方に対して疑念があるということですか。
○安倍国務大臣 それは先ほど申し上げておりますように、いわゆる極東国際軍事裁判所の裁判を受諾している、そして異議を申し立てる立場にはないというのが政府の見解でございます。
○岡田委員 東京裁判を受諾しているということでよろしいですね。
○安倍国務大臣 今申し上げましたように、私は、もともとの正文である英文を引用してジャッジメンツと申し上げたわけでありますが、政府においてはそれは裁判ということで訳しているわけでありますが、基本的には、要はこれは何を我々は受諾をしたかといえば、先ほど申し上げましたように、この判決について、またこの法廷もそうなんですが、それも含めて、我々が異議を申し立てて損害賠償等々をする、そういう立場にはない、こういうことではないだろうか、こう思います。
○岡田委員 東京裁判で有罪判決を受けたいわゆるA級戦犯について、私は小泉総理と議論をしたことがあります。
そのときに小泉総理は、A級戦犯は戦争犯罪人であるというふうに言われたわけですが、外務大臣、同じ認識ですか。
○麻生国務大臣 戦争犯罪人という定義は国際軍事法廷における見解でありまして、それが日本の裁判に基づいて犯罪人であるかということになりますと、明らかにそれは、重光葵A級戦犯は後に勲一等を賜っておられますので、少なくとも日本の国内法に基づいて犯罪人扱いの対象にはなっていないということですが、戦争犯罪人というのは、極東軍事裁判所によって決定された裁判において犯罪者として扱われているというふうに御理解いただいたらいいんだと思いますが。
○岡田委員 これは国内法において有罪判決を受けたというわけではないというのは、それはそのとおりであります。しかし、東京裁判というのはそういう国内法を超越するものとして、超法規的という言い方がいいかどうかわかりませんが、それに上位する概念として東京裁判というものがあって、そこで有罪判決を受けた、そこの認識はよろしいですね、外務大臣。
○麻生国務大臣 極東軍事裁判所の裁判を受諾したということであります。
 ジャッジメンツの話を言っておられる方もよくいらっしゃいますけれども、これは、ジャパン・アクセプツ・ザ・ジャッジメンツと書いてあって、その後、アウトサイド・アンド・インサイド何とかとずっと文が出ていますので、B級戦犯、C級戦犯含めまして、複数の裁判所の決定に皆従うという意味で、ジャッジメンツというぐあいに複数になっているというように理解するのが正しい英語の理解の仕方だと存じますので、裁判所の判決ではなくて裁判を受諾したというように、サンフランシスコ講和条約第十一条はそれを意味しているものだと理解しております。
○岡田委員 今、麻生大臣は重光氏のことを言われましたが、こういう議論は時々出てきます、官房長官もそういうことをかつて言われたことがあると思うんですが。ただ、重光氏の場合には、有罪判決を一たん受けながら、赦免された。そしてその後、国内で御活躍されたということであります。
しかし、そのことが、その後御活躍をされたということが、かつて東京裁判において犯罪者として裁かれた、そういう判決を受けたということを無効にするものではもちろんないというふうに考えるわけであります。
 そういう意味では、その後、重光氏が活躍をされて、あるいは勲章まで受けたということが、東京裁判そのもののその効力を否定するものではないというふうに私は考えますが、官房長官、いかがですか。
○安倍国務大臣 今、委員は何をもってその効力と言っているか、私はそこがよく理解できないわけでありますが、いわば連合国によって東京国際軍事法廷が開かれたわけであって、そこで被告となった人たちが、平和に対する罪、いわゆるA級戦犯はそうですが、平和に対する罪によって有罪判決を受け、七名の方々は死刑になったということでございます。
しかし、サンフランシスコ条約の第十一条については、つまり、そういう人たちを連合国の承諾なしには勝手に釈放してはいけないというのが十一条なわけでありまして、その後、我々は何回かの、累次にわたる国会における決議等々を積み重ねていく中で、国民の圧倒的な支持のもと、連合国と交渉をした結果、先にA級戦犯、そしてBC級戦犯が釈放されたというのが歴史的事実なんだろう、こう思っているわけであります。
では、国内においてどういう立場かといえば、これは、我が国が主体的にこの人たちを裁いたわけではないというのも、これはまた事実であろう、こう思っています。
○岡田委員 今のお話ですが、確かに赦免、減刑あるいは仮出獄ということは認められておりました。
しかし、赦免というのは、そのもとになった東京裁判の判決そのものを無効にするものなんですか。
そういうふうに聞こえますよ、今のお話は。いかがなんですか。
○安倍国務大臣 私はそれを無効にするということは一言も申していないわけでありまして、サンフランシスコ条約を我々はもちろん受諾、ここで我々もサインをしているわけであって、その中で十一条において書いてあったことを述べたわけでありまして、その手続に沿ってその人たちを赦免した。
そして、当時は国民のほとんど、多くの人たちはそれを支持していたという事実を申し上げたわけであって、つまり、この人たち、このA級戦犯、まあ、BC級も含んでもいいんだろうと思いますが、連合国によって戦犯と言われた方々と連合国との関係においてこの裁判がなされて、そして日本はそれを受諾したということでございます。
しかし、日本において彼らが犯罪人であるかといえば、それはそうではないということなんだろう、こう思います。
○岡田委員 日本においてというより、日本の国内法において裁かれたわけではないという意味ではそうだと思います。しかし、いろいろ、こういう議論があるわけですね。その後重光氏は活躍された、だからあの東京裁判そのものがやはりおかしかったんだ、こういう論理立てをする方がいらっしゃいます。
私は、そうではなくて、東京裁判の判決そのものは有効であって、しかし、その後、その後の刑を赦免というのは、東京裁判の判決そのものを無効にするものではなくて、ある一定時点から社会復帰していい、こういうことですから、そのことが過去の東京裁判の判決を無効にするものではないと当然考えるべきだと思いますが、そこのところは、官房長官、いかがですか。
○安倍国務大臣 今、委員がおっしゃった、いわゆる重光葵さんは、その後、御承知のように、国会議員となって、そして外務大臣に就任をして、日本が国連に復帰をしたときの外務大臣であります。
また、例えば賀屋興宣さんも、同じく国会議員となり、そして法務大臣になっておられるわけでございます。
つまり、こういう方々と日本国民との間柄、刑法、日本の法律との、法令との関係について麻生外務大臣は申し上げたわけであって、それからも示されるように、日本として、いわゆる犯罪者として日本の法律によって裁かれたわけではない、であるからこそ勲一等を賜ることもできたということを述べたわけであって、しかし、他方、もう何回も申し上げるわけでありますが、このサンフランシスコ講和条約によって日本は独立を回復するわけでありますが、その中において、この第十一条を、我々はこれによって、日本は、この国際軍事法廷に対して異議を申し立てる立場にはない。異議を申し立てる立場にないということと、日本国内においての法的な、日本国内法との関係とはまた別の問題である、このように思います。
○岡田委員 日本の国内法上、有罪判決を受けていない、そのことは事実です。
しかし、日本国として受諾をしている以上、そこに法律があるかないかということではなくて、日本国政府として、あるいは日本国として、そのことに拘束されるのは当然じゃありませんか。
○安倍国務大臣 岡田委員は、何かまるでGHQ側に立っておっしゃっているように聞こえるんですが、あの十一条を、私たちは、あのときはあのサンフランシスコ講和条約を受け入れるしか、当時は単独講和、全面講和という議論もありましたが、あれによって日本は独立を回復したわけであって、今日の繁栄があるんですが、しかし、あれを受け入れなければ独立を回復することはできなかったんですね。
 そして、あの十一条を我々が受け入れた結果どういうことが起こったかといえば、世界のほかの、日本以外の牢獄の中にいた、この中にはもしかしたら冤罪の人たちもいたかもしれませんが、BC級の方々も、残念ながら当分の間釈放されずに、その中で、獄中で亡くなった方々もいたんですよ。
しかし当時は、これを受け入れなければ我々は独立を果たすことができなかった。
そういう苦渋の判断の上に私たちのこの現在があるということも忘れてはならないんだろう、こう思っているわけでありまして、この裁判がどういう手続の上にのっとっているかということは、先ほど来外務大臣がもう既に答弁しているとおりなんだろう、こう思っています。
 私は、この条約を、サンフランシスコ講和条約を、日本もそこにサインをしている以上、当然これが、今、いわゆる政府の立場として、全く無効だから、かつての損害賠償をしろと異議を申し立てる立場にあるとは全く、むしろそういう立場にはないということを累次申し上げているわけであります。
○岡田委員 今の官房長官の御答弁からは、十一条を受け入れるために苦渋の選択をせざるを得なかった、そういう思いが伝わってくるんですが、私は、それはそうじゃないと思うんですよ。
それはやはり、国民の立場に立って戦争についての責任を明確にする。もちろん、不十分な、百点満点とは言えない裁判だったけれども、しかし、そこで一つの結論が出た。
それを受け入れたことが、私は苦渋の選択だったとは思いません。
 では、安倍官房長官にお聞きしますが、もしそうであれば、あの六十年前の戦争の責任はだれが負うべきなんですか。
○安倍国務大臣 私がなぜそう申し上げたかといえば、いわゆる停戦状況になって、そして戦犯に対する裁判があって、しかし平和条約を結んだ段階では、これは国際法的には、慣習的にはその裁判の効力は未来に向かっては失うわけでありますが、しかし、我々は、連合国の要請に従って十一条を受け入れたわけでありまして、講和条約後もこれは効力として続いたわけであります。
 それによって、私が今申し上げたのは、A級戦犯の方々は、まだ国内で刑に服しておられたわけでありますが、BC級の方々は、例えばフィリピンなりインドネシアなり海外で刑に服していたわけであります。
この方々も、残念ながらこの十一条を受け入れた結果、直ちに釈放されるということはなかったという事実を私は申し上げているわけであります。
○岡田委員 私の質問に答えていただいていないんですが、これは官房長官それから外務大臣にもお聞きしたいと思いますが、もし東京裁判以外、先ほど来から国内法では裁いていないという話がありますが、そうだとすると、六十年前の戦争の責任は一体だれが負うべきだというふうにお考えなんでしょうか。
まず、外務大臣に。
○麻生国務大臣 考え方もいろいろあるんだと思いますが、当時、そんなまだ記憶のあるほど、私、正確に覚えているわけではありませんけれども、あの当時の時代において軍国主義者が悪かったという話に多分話としてはなったのがこの間の形なんだと思います。
 少なくとも、日本の場合、何となく決めるときはみんなでというようなところがありますので、一億総ざんげみたいな話が当時、昭和二十年代には、後半はそんな雰囲気もあったんだと記憶をします。
その後、いわゆる極東軍事裁判が始まっていくわけですけれども、私としては、何となく、この人が、特定のこの人だけが悪かったというような話があるかと言われると、それはいろいろな方々が出てくるので、日本の場合は、いわゆる記録文書を読んでも大東亜戦争に突入せよということを発令した文書は何一つ残っていないというのが実態でもありますので、そういった意味では、なかなかこの人という、特定の人は、非常にやりにくいというのが現実だったろうと思いますので、そこで軍国主義というような話になっていったんだというのが経緯だろうなと思っております。
○岡田委員 官房長官も。
○安倍国務大臣 いわば連合国との関係においては、極東国際軍事法廷によってそれぞれA級、B級、C級の方々が裁かれた、その方々が責任をとられたということではないかというふうに思います。これは明確なんだろう、こう思っています。


 岡田議員、貴方は一体何処の国の政治家ですか、と言いたくなる問答ですが、その結果安部官房長官がかなり明確に第11条の政府解釈を説明していますので、結果オーライということにしておきましょう。
麻生外務大臣の方は岡田議員に引きずられてかなり混乱していたようですが。
 つまり、ジャッジメンツを受諾したとは、国際軍事法廷に対して全く無効だからかつての損害賠償をしろと異議を申し立てる立場にはない、ということであり、11条の効果は、平和条約締結により効力を失う軍事法廷の効力を継続させるものだったということです。
 この解釈は、これまで検証してきた各答弁及び佐藤教授の論文の趣旨とも合致します。
そしてこの答弁で最も注目すべき箇所は、アカデミックな分野、または一般の国民がこれについていろいろな議論、研究をすることもいけないと思っている人たちがいるんだと思うんですが、そんなことは全くないという発言でしょう。
 こういう正論が某新聞社には気に入らないのでしょうね。




赤旗の捏造から近代日本史を学ぼう 2006年11月11日記事

2012.02.01(10:44)

赤旗に掲載された記事で、読者の質問に答えるコーナーでの赤旗の回答に驚いたので、記載しました。

 〈問い〉 関東軍とはなんですか? 日本の関東地方出身の兵士が多かったからですか?
(島根・一読者)

 〈赤旗の回答〉 関所の東を指す「関東」という地名は中国、朝鮮、日本にそれぞれあります。
中国では、山海関以東の地を関東と呼んでいました。

 関東軍とは、一言でいえば、日本の中国侵略の尖兵(せんぺい)となった軍隊のことですが、その名は中国の地名からとったもので、日本の地名とは関係がありません。

 日露戦争終結による1905年のポーツマス条約によって、日本はロシアから、関東州と呼ばれていた旅順・大連地区と、長春以南の鉄道と付属地の権利などを持ち主の中国はそっちのけの交渉で手に入れます。
ここに関東総督府(翌年関東都督府)を設け、鉄道及び炭田、製鉄所などの経営のために南満州鉄道株式会社を設立し、この権益を守るために軍隊を派遣します。
これが関東軍の前身です。

 19年、関東都督府が関東庁になると同時に陸軍部は独立、関東軍司令部が旅順に設置されます。
関東軍司令官は、本国から交代で派遣された1個師団と独立守備隊、旅順要塞(ようさい)司令部など在満陸軍全部を統括しました。

 関東軍は天皇直隷の軍で、その使命は仮想敵ソ連にそなえ、その尖兵の役割を果たすこと、そのために「満蒙」にたいする支配を確実にすることにありました。

 日本は、27年の「東方会議」で、「満蒙」を中国「本土」と区別して日本の権益のある特別の地域として日本の支配下におくという方針を決めます。(満蒙の「満」は満州の略で、中国の東三省、「蒙」は「蒙古」の略で、内モンゴルのこと)

 この国策に沿って、関東軍高級参謀の河本大佐は、満州を支配していた軍閥の首領・張作霖爆殺事件(28年)を引き起こし、カイライ国家「満州国」建設を主導しました。

 31年9月18日の柳条湖事件を契機に関東軍は「満州事変」を起こし、日本は本格的な中国侵略を開始しました。「満州事変」後には、関東軍司令官は駐満特命全権大使・関東長官を兼任し、34年12月からは関東州・満鉄付属地の行政権と満鉄の監督権を握り、満州国の軍事・行政全域に君臨しました。
関東軍の兵力は毎年増えつづけ37年、5個師団、41年、13個師団編成に。
その間、38年、日ソ両軍が衝突した張鼓峰事件、39年、日ソ間の局地戦争・ノモンハン事件でソ連軍に大敗。41年には、独ソ開戦に伴い関特演(関東軍特種演習)という名で70万の大軍を集結させ、対ソ戦に備えます。
しかし、戦局が悪化した43年以降、精鋭部隊を南方に移動し、急速に弱体化、45年7月在満日本人男子25万人の根こそぎ動員を実施しますがソ連参戦によって一挙に瓦解し、多くの悲劇をうみました。(喜)

 〔2006・11・11(土)〕

先ずは、この記事ですが、<関東軍とは、一言でいえば、日本の中国侵略の尖兵(せんぺい)となった軍隊>
関東軍とは、中国侵略(侵略はしていません)の尖兵となった軍隊ではない。
関東軍の前身は、大日本帝国の中華民国からの租借地(日露戦争)であった関東州(遼東半島)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊でした。
関東軍が南進をしたのは、1941年です。
シナ事変は、1932年ですので、関東軍の南進はシナ事変の9年以上経って実行されたのです。
又、関東軍を南進させたのは、共産主義者の謀略だった事実が記載されていませんね。
如何にも、共産党の機関紙である赤旗らしい、歴史を歪曲した記事です。
関東軍は、満州の防衛を目的に組織され、侵略の為の武器はほとんどなく、防衛を目的にした武器を装備した軍隊だという事を理解して読むと、赤旗に記されている記事の不合理性を見抜くことが出来ます。

余談
清国に於ける租借地は一般に租借期限が99年に設定されることが多かった(英領新界、仏領広州湾、ドイツ領膠州湾、日本領関東州(1905-1999)など)。これは99年の99という数字が中国語の久久(=永久)と同音であることから、これらの租借は永久租借すなわち事実上の割譲を意味していた。

<日露戦争終結による1905年のポーツマス条約によって、日本はロシアから、関東州と呼ばれていた旅順・大連地区と、長春以南の鉄道と付属地の権利などを持ち主の中国はそっちのけの交渉で手に入れます。>これは、全く事実と違います。
赤旗の言う中国が持ち主とあるが、シナは一度も内モンゴル(満州)を領土とした事実は有りません。
清とは、満州人の国家であると共に、明(シナ人)が満州人によって滅ぼされて出来たのが清(満州人による政権)です。
更に、日露戦争当時、清国はロシアとの相互防御同盟下にあり、清国は日露戦争に於いて、ロシア側に軍隊を投入し、日本国に対し攻撃を行っているのです。
この時点で既に、ロシア側に付いて戦った清国の満州における発言権は喪失している事実が、赤旗(共産党)に於いて史実が歪められ(隠蔽)て記載されているのです。

<日本は、27年の「東方会議」で、「満蒙」をシナ「本土」と区別して日本の権益のある特別の地域として日本の支配下におくという方針を決めます。>この記事も捏造です。
シナは、満州を一度も領土としたことは無く、領土でない満州をシナから分断したかの記述に共産主義者の願望とも言える思想が記されています。
17世紀初頭に明の支配下で、満洲に住む女直の統一を進めたヌルハチが、1616年に明から独立して建国した後金国が清を建国した。
1619年、ヌルハチがサルフの戦いで明軍を破り、後金国の勢力圏は遼河の東方全域に及んだ。
1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽(偽物)を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲に改めたのが、満州の起源となっている。
この様に、明が滅亡してから、276年間シナ人は国を持てず、満州人に支配されていたのです。
満州国を建国するに当たり、清国皇帝である愛新覚羅 溥儀が満州国の皇帝となったのは、こういった経緯があるのです。

<この国策に沿って、関東軍高級参謀の河本大佐は、満州を支配していた軍閥の首領・張作霖爆殺事件(28年)を引き起こし、カイライ国家「満州国」建設を主導しました。>これも滅茶苦茶ですね。
この事件は、1927年3月に起こった南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後にシナ共産党とソ連の策動があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつしかるべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。その結果、同年4月6日、北京のソ連大使館官舎を奉天軍が家宅捜索し、ロシア人・シナ人80名以上を検挙、武器及び宣伝ビラ多数などを押収した事件でソ連側は一時、シナ側と険悪な状況に陥っていた。
シナを共産圏に取り込む戦略で東亜の支配力を盤石にしたいソ連は、張作霖の首と馬賊への抑圧を条件に出し、緊張関係の回避を謀ることで合意した。
この様な経緯を総合的に判断してみれば、張作霖の殺害を企てたのは、中国共産党がソ連からの資金、軍備の支援を得る必要がある状況で、ソ連との関係修復を最優先させ、張作霖の殺害を企て、ソ連との合同作戦を実行、殺害に及んだ。
日本政府側の当時の国策は、対ソ防衛重視であり張作霖は満州に於ける平定の重要人物であると共に、馬賊と日本国は共闘して、対ソ防衛を実行していた。
シナからの帰国列車にて線路爆破による重傷を負い、帰宅途中の車中で死亡した。が、日教組が教える歴史ですが、事実としてそうであるのか、事故当時の列車の写真を見ると、何故か列車の屋根が大破していて、列車は線路を脱線していないのである。
この事実と共に重要なのは、同じ列車に日本軍の軍閥である儀我少佐以下多数の日本軍人が同乗しているにも拘らず、日本軍が線路を爆破するであろうか。
又、1928年(昭和3年)6月4日、張作霖は事故後、自ら歩いて馬賊が用意した(用意したのは当時、国民党を支持して父親と対立関係にあった息子の張学良[西安事件を考慮するとソ連のスパイであった可能性もある]の可能性も)車に乗り込み自宅へと向かい、その帰宅途中に死亡している。
(この張作霖が軽傷であったとの事実は、事故翌日の東京日日新聞夕刊に馬賊の広報課長、陶尚銘への取材を記事として記載されている)
張作霖が重傷を負ったとの戦後の歴史認識を日本人は植え付けられているが、当時の日本国にとって満州の治安を安定させる為に欠かせない人物が重傷を負っているのに日本軍医師や護衛も同行させず治安がまだ良くない満州領内を車で帰宅させるだろうか。
事故後、張作霖が重傷を負っている状況で、馬賊の広報が新聞記者の質問に答え、運転手と張作霖の2人で帰宅したという事は軽傷であったとする解釈が自然で、この事件に日本軍が関わっていない証明ではないか。

<31年9月18日の柳条湖事件を契機に関東軍は「満州事変」を起こし、日本は本格的な中国侵略を開始しました。「満州事変」後には、関東軍司令官は駐満特命全権大使・関東長官を兼任し、34年12月からは関東州・満鉄付属地の行政権と満鉄の監督権を握り、満州国の軍事・行政全域に君臨しました。>ここも捏造の宝庫ですね
ソ連は東支鉄道及び満州の北西地域を完全に影響下におさめ、中国共産党を支援して東満州に共産軍の遊撃区を構築して反日闘争を展開した。(満州における鉄道関連地図及び共産化状況地図)
これにより、大正中期より東満州は共産パルチザンによる暴動の巷(ちまた)となり、昭和6(1931)年まで108件にも及ぶ事件が起こった。
その中でも特に大きな事件は、昭和5(1930)年に間島省で日本人44名が殺害された暴動事件である。
その結果、満州の日本人社会においては、次は中国共産党の正規軍による反日暴動が起こるのではないかという危機感が高まることとなった。
一方満州の支配者であった張作霖(ちょうさくりん)は、アメリカの力を背景にしながらこの地域における排日運動を推進した。
満鉄への経営妨害、炭鉱など鉱山の採掘権の否認、鉱物の輸送制限、付属地の買収禁止、その他農林水産業への妨害、二重課税などの不当課税による商業活動の妨害、日本人や朝鮮人への立ち退き命令などが行われ、これらによって日本人居留民の生活は危殆(きたい)に瀕(ひん)した。
これらの多くの排日事件の中で、日中間の外交交渉の俎上(そじょう)に上がった「日支懸案」件数は昭和2年に31件、3年に37件、4年に77件、5年に95件の合計240件に及んだ。
これに在満朝鮮人(当時日本国籍)への迫害や殺害事件などを加えると、事変発生当時満州をめぐる日本と中国との間の懸案は、実に300件を上回った。
満州事変直後には満州では日本人居留民が生活出来ないまでになっていた。
満州事変は以上のようなおびただしい排日事件が繰り返されたのちに、これを解決すべく起こったのが満州事変である。

日本軍の南進論の経緯共産主義者の関わりについて検証
1936年8月、
アメリカのヨセミテで「太平洋問題調査会」の第六回国際会議が開催されました。
この会議は回を重ねるごとにモスクワ指令のコミンテルン主導の会議と化していきました。
この国際会議の書記であった牛場友彦は尾崎秀実を支那専門家の日本代表として出席させました。
そして、この会議でこのようなことが決定されました。
「日本陸軍が北進を進めている。
強大な関東軍が満州にいるため北進されるとソ連は苦境に立たされてしまう。
それを避けるために日本の南進策を強化し、南進によって日米が戦うことになれば
日本は米国の物量に屈し一年で敗れる。そしてソ連が日本を討つのは日本が敗れた時である」
この後、尾崎は重慶にいる太平洋問題調査会のメンバーである
ギュンター・シュタインと連絡を取り日本の南進政策をとらせるように諮ったのです。

1941年6月22日、
コミンテルンは日本の共産党員にこのように指示を出しました。
「日本がシベリアに進攻しないように、あらゆる手段を持って工作すること」

満鉄調査部から農事合作主事の佐藤大四郎に
「シベリアにおける農産物と畜産事情を過去数年間と現在の資料及び将来の見通し」
について報告するように依頼しました。
これは、この時満鉄調査部にいた尾崎秀実が佐藤大四郎に
「日本が北進する可能性もある」ということを知らせるものでした。

そしてコミンテルン指令の通り日本軍をシベリアへ進攻させないために、
「調査の結果、シベリアの農畜産物事情は過去、現在、未来にわたり最悪で、
住民の自給自足さえ困難、よって日本軍百万の食糧調達は不可能である」
という嘘の調査報告書を作成したのです。
これが南進決定の根拠になり、日本国を日中戦争へと導いたのです。

この時期、朝飯会では尾崎秀実が南進論を繰り返し発言していました。

「日本がシベリアに侵入しても政治上、経済上の利益は何一つない。
米英はそれを歓迎し日本が石油と鉄を使い果たしたら機会を見て日本を討つはずです。
しかしドイツがソ連を破れば日本は黙ってシベリアが手に入る。
日本にとって南方こそ価値ある地域で、南方には日本の戦時体制に不可欠な緊急物資があり、
南方こそ日本の発展を阻止する真の敵があるのです」

「元来シベリアは独立して立ち得る地域ではない。
欧露に依ってのみ支配されるべきもので、従って日本がシベリアを領有してみても
欧露に強い政権が出来ればシベリアはその政権に支配されるのです。
資源の関係から見ても現在必要とする石油、ゴムの如きはシベリアには無く、
この点からすれば日本にとってはむしろ南方進出こそ意味があるのであります。
現在の日本としてはソ連の内部的崩壊が到来すれば極東ソ連は武力を用いずして
支配下に収め得るので殊更武力を用うるの必要を認めないのであります。」

「ソ連は立ち上がりは拙かったが、ソ連には底力があり之は未だ出て居ない。一度戦線が膠着状態になるとソ連内部の崩壊の危険よりも寧ろ独逸内部に色々な不満が現れて来て対ソ連戦を遂行することが出来ぬようになる可能性さえ持ってくる。」

日本の対ソ戦に関して「ソ連軍は相当に強く従って犠牲を多く出すことを覚悟しなければならぬに比し、シベリヤには此の犠牲に値する丈の経済的の何物も無いからソ連とは戦うべきでは無い。」

これらの尾崎の言動は、対ソ連攻撃が無意味であることを主張していました。
これがいわゆる尾崎の「シベリア傾斜論」です。

また、企画院では南進論の石油資源獲得の調査を何度も行っていましたがその調査報告はでたらめでした。
実際に蘭印を占領したら蘭印の石油は硫黄分が多く航空燃料にはならず、推定埋蔵量も3倍に水増しされていて、実際はそんなにありませんでした。
企画院には第七回コミンテルン会議の指令を守るコミンテルンスパイがいて、尾崎秀実も企画院に依頼して数字を水増しさせていました。

この時期ちょうど、ソ連はドイツの猛攻で首都モスクワが危険にさらされていました。
ドイツは日本のシベリア進攻を催促してきました。
関東軍は参謀本部からの進撃命令を待っていました。
しかし、東條陸相は
「食糧を敵地に求める陸軍伝統の作戦遂行はシベリアでは不可能である」と主張しました。

ここまで読まれれば、これがどこから出てきた考えか理解できるはずです。
これにより陸軍の主流であった統制派の南進論が皇道派と関東軍の北進論を制してしまったのです。

1941年7月2日、国策として決議
御前会議で「独ソ開戦に伴う新情勢に対応する国策決定」し、
日本はソ連攻撃をやめて南部仏印進駐し、
北方は日本に有利となるまで待つことなったのです。

これでゾルゲの日本での使命は果たされモスクワのコミンテルン本部に対して
「日本における任務は終わったから帰国しようと思うが如何」
という電報を打って海外逃亡の準備を始めました。
日本を対米英戦に追い込めばゾルゲの日本での任務は終わりでした。

日本側が圧勝した張鼓峰事件には一切触れず、ノモンハン事件に対し、回答している時点で眉唾であると言える。
ついでに、ノモンハン事件の真実もソビエトが対ポーランド戦(対ヒトラー)を念頭に置き、ソ連は周到に準備して夏を迎え­る­前に(シベリア鉄道によるヨーロッパへの武器の輸送を夏迄に­終え­ておく必要があったが、ノモンハン事件で多数の損害を負った為、西側に輸送する武器が少なく輸送自体は楽な結果になったので、輸送に関する混乱は無かったし、その記録もない)満州の全土を制圧し、極東を抑えた上で、ヨー­ロッパ­戦線に軍備を投入する戦略を立ててソビエト側から一方的に1939年5月満州側に侵攻(ソ連軍は、最新鋭の軍備を投入し7月までに満州を攻略する予定でしたが、日本軍の激しい抵抗にあい、結局9月まで戦闘が続き当初の計画を達成できず戦略責任者を処刑した)して来た。

では、ソ連の大勝だったとする両軍の戦果はどうだったのか。
この戦闘による両軍の被害に関しては、兵士動員数、ソ側­­30万+モンゴル人、日本軍3万人、戦死者ソ側2万7千+モンゴル人多数(基本前線で戦闘に当たったのでロシア人以上と考えられる)、日側­1­万7千、撃破された戦闘機、ソ側1673機、日側179機、戦車に於いては、ソ側­80­0両以上、日側29両の被害を受ける結果となっている。
この様に、日本軍の戦果はソ連軍の10倍に達している。
しかも、ソ連側の陣地が高台に­­位置していて航空機を用いた戦闘でも、砲撃による攻撃でも地形­的­に優位な状況での戦闘で、ソ連軍に負ける要素の欠片もない戦況で多大の被害を受ける結果を招いた事に対し、スターリンは激怒し、シュテルン大将(ジューコフ­の身代わり)を処刑しているのである。
しかも、ソ連側の騙し討ちでの開戦で、日本軍は物量と地形的に優­­位なソ連軍に対し、10倍の被害を与えているのです。
これを、共産党(赤旗)では、日本軍の大敗と評している。
講和の交渉に於いては、日本のお家芸でもある交渉下手(結果を早急に求­めて、敵に足元を見られる)が、満州の領地をソ連側に与える結果となりましたが、高台に位­置していたソ連軍が、結果的に平地に陣を構える結果となり、優位な状況で­の戦闘でも10倍の被害を受けたソ連軍は、この講和により、日本­に攻め込むことが事実上不可能となったのです。
この講和は、関東軍の任務である満州の防衛という事を考えれば、結果的には少数精鋭で任務が逐行できる「­災い転じて福となす」といえるのです。
それともう一点気になる部分が有りますので記載します。
回答文より、<45年7月在満日本人男子25万人の根こそぎ動員を実施しますがソ連参戦によって一挙に瓦解し、多くの悲劇をうみました。(喜)>関東軍の兵力をシナへと投入させた共産主義者が、この一般男性を戦場に送り込ませた張本人であり、これらの犠牲者に対し最後の(喜)とは何だ!
これが、戦後に反戦主義者の仮面を被った共産主義者の本心だと確信させられた記事です。
共産主義者が、戦前、戦中、戦後と行ってきた行動は、(喜)に表れている。
日本国(日本人)を陥れ、共産圏に日本国を売り渡す行為を現在も継続して行っている共産主義者ということです。

余りにも、デタラメな回答で、突っ込み処満載の赤旗記事でしたが最後に、ペテン師のルーズベルトが、「政治的な事件に偶発なし、すべて準備されている」と語っている。



2012年02月

  1. 桜会(02/29)
  2. ベノナ・ノート(02/29)
  3. 会沢 正志斎(02/19)
  4. 通化事件(02/15)
  5. 真実の創氏改名とは(02/11)
  6. 張鼓峰事件(02/04)
  7. ポツダム宣言 東京裁判 サンフランシスコ平和条約(02/02)
  8. 赤旗の捏造から近代日本史を学ぼう 2006年11月11日記事(02/01)