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桜会

2012.02.29(18:39)

『桜会(さくらかい)とは、日本の軍事国家化と翼賛議会体制への改造を目指して
1930年(昭和5年)に結成された超国家主義的な秘密結社である。』

この認識が、多くの国民が持つ桜会の知識ではないでしょうか。
しかし、この桜会のスポンサーが、ソ連のスターリン《資金元は、1923年にレーニンの指示で、吉田一がヨッフェから60万円(現在の貨幣価値で約40億円)を受け取った。この資金が後に、桜会に渡ることとなる。〈更に、この時に受け取った資金の残金が、戦後、日本社会党の結党資金となっている。〉》であることを知る者が一体どれだけ存在しているのか。
日本軍人を共産勢力のコントロール下に置くという陰謀を成功させる為にコミンテルンの秘密結社でありながら、表向き日本軍の軍閥として結成されたのが「桜会」だったのです。
この会を設立後、どのような事件が起き、日本国が翻弄されていったのかを調べていくと、当時の左翼の陰謀が見えてくるということである。
戦前の日本は、軍部が暴発して戦争へと向かっていったとする起点として名が挙がるのが、所謂226事件です。

しかし、この226事件は本当に国粋系組織である皇道派と呼ばれる青年将校たちが起こしたクーデター未遂事件で、皇道派は政財界と結んでいた統制派を倒して天皇をまつりあげようと目論んでだとされていますが、226事件に至るまでの過程にどの様な動きがあり、何故226事件に至ったのかを調べていくと、左翼の念密に練られた日本国を貶める計画が明らかになってきたのです。
この情報を知ることで、今行われている日教組教育の異常なほど日本軍を貶める教育が成されているのかが理解できるのではないか。
この日本近代史の闇の部分を紐解く事で、当時の共産主義者達の陰謀が解読されるのではないかと思い「桜会と共産主義者」の謀略を世に示す事を目的として今回、戦後の捏造教育からの解脱の進める事を目的に記載しました。
日本国をどの様に戦争へと導いたのかが読み取れると思います。


先ず桜会は、参謀本部の橋本欣五郎中佐、長勇少佐らが、政党政治が腐敗している{当時、共産主義者は、「共賊」と呼ばれ党として政治活動することが出来なかった為、大学やメディア等で一定の発言力を得た段階に於いて、国民に対して戦争へと向かわせる扇動工作で謀略を浸透させ、国民を窮地に追い込むことにより支持拡大を企てた。共産主義者にはインテリ(自分が騙される筈がないという暗示を自らに懸けてしまう)が多い事が1つの特徴である}とするとともに国民の大多数を占める農民{岡田内閣がデフレ政策を執り、緊縮財政下での農作物の豊作(デフレにより、物価が下落した時に米が豊作となり、米価の価格が暴落した)と不作(不作により収穫量が減少し、それを補うためにコメを半島から輸入した為、米価に変動が無く収入が激減)により、東北地方では生活苦で身売りするまでに至った農家が急増した}の窮状に日本の将来が危惧されるとして、朝鮮や満州への投資の不当性を主張して農民の指示拡大を謀った、左翼(共産主義者)の自作自演の人為的不況だったのです。
このデフレ不況からの脱却に白羽の矢が立ったのが、後に226事件で射殺された高橋是清だったのです。
このデフレ政策と採算が取れない状態に追い込まれる米価により、農家出身で桜会の主張に同調する東北地方出身者の若者が多く参加している要因となっているのが特徴と言える。
この東北出身者である彼らの大半が後に、皇道派として226事件に参加したのである。
このデフレ政策というのは左翼が国民の生活を窮地の追い込む時に頻繁に使う手法ですので皆さんで左翼の動きを注視していきましょう。
当時は第一次世界大戦後のハイパーインフレを改善する為に、金本位制を復活させてハイパーインフレを脱却しようとする世界の金融方針が金本位制に統一され、後にアメリカ発の金融恐慌に陥ったのが桜会設立1年前の1929年です。
世界が金本位制を導入してデフレへと突入して、世界恐慌へと陥った事を日本国を不況に落とし入れる手段として活用したのが、翌年の1930年、濱口内閣によって行われた金解禁(昭和4年大蔵省令第27号)で、日本国の金本位制導入だったのです。
この時の大蔵大臣は、1932年に血盟団事件で射殺された井上準之助です。
正に、金本位制を導入した年に、桜会設立という左翼が日本滅亡を企て、左翼の言う革命計画が実行に移されたのです。
この時既に、官僚を支配下に置いていた(官僚は当時から帝大法学部出が占め、この帝大法学部を中心に存在した新人会で日本共産党の下部組織として存在し、卒業後各官庁に入省していた。新人会は、1918年12月結成、1929年11月に解散するまで、戦前の日本における学生運動の中核的存在で、判明している会員数だけでも延べ、約360名に達している。)左翼が、次に目指したのが、軍部を支配下に置く(1928年に行われた第6回コミンテルン会議で、スターリンが指示した「敗戦革命」を実行する為)ことだったのです。

官僚支配下に置く為の活動は、1918年~1929年の11年間活動した新人会が主導的役割を果たし、官僚をコントロールできる体制を整えた後、新人会を解散した。
その翌年、日本国崩壊の序章として金本位制を導入したのである。
この金本位制とは、それまで好調を維持していた日本経済を緊縮財政政策に切り替え、デフレ不況を演出して、国民に政府への不満を抱かせ、国内に不満分子を増発させて左翼勢力の拡大を企てた政策なのです。
このデフレ状態を人為的に発生させ、日本国を混乱に陥れ国体の破壊を企てた左翼の陰謀と、現在の日銀指針であるデフレ維持策がどの様な意味を示しているかが想像できるだろう。
インフレとは成長であり、過度な成長はバブルを生む、インフレがバブルに至らない様に、インフレの上限値であるターゲットを設定してコントロールすることが、日銀の本来の仕事なのです。

今の日銀が行うデフレ容認の姿勢は、戦前の好調だった日本国経済を人為的に窮地に追い込んだデフレ政策が、ダブってしまうということに気付かれた方も多いと思います。
左翼にとって、国の存在は悪で、国境無き世界の構築が究極の目的なのです。
ですから、国の象徴である皇室(君主制)の崩壊を模索し、今も活動しているのが左翼なのです。
 左翼の手法としてよく用いられているのが、国民が非難し辛いネーミングを団体名に付け、活動していることです。
「自由」、「平和」、「市民」、「平等」、「共生」左翼の団体によく使用されている名称であり、事業名であるのです。
この名称が目に入ったら、裏で『利権』を得て活動している左翼団体と考えることが出来る。
何故、この様な記載をしたかというと、戦前もこの手法で国民を欺いてきたからなのです。

「桜」とは、日本人の心であり、桜=国家を印象するのがある意味正常な思考であり、戦前もこの思考は同様というか、現代以上といってよいのではないか。
 桜会=日本人の会と感覚的に思ってしまう、正に国民を欺く最適なネーミングだったのです。
この桜会が、まさかコミンテルンの秘密結社だなんて謀略した者以外、その疑義を持つ者は誰も居なかったのです。

少し、話が飛んでしまったので、1930年から導入した金本位制は昭和恐慌を生じさせた。
では、金本位制の導入で日本国がどの様な経済状況に至ったのかを説明しましょう。
1930年の農家は豊作に恵まれ、本来ならば文字通り豊かな生活が送れると思いきや、金本位制の導入により、国内には通貨が不足する状況にあり、且つ朝鮮や満州からの米の輸入によるコメのダブつきが米価の暴落に拍車をかけたのです。
所謂、豊作貧乏という状況でした。
この時の農家不況は昭和農業恐慌といわれているが、この恐慌が、後に日本国が戦争へと踏み出す要因を生み出したのである。
このコメのダブつきを回避する為、半島から本土へのコメの輸入が一時的に禁止されたのです。
金本位制は、昭和恐慌を生み出したが、昭和恐慌からの脱却の命運をかけ、白羽の矢が立ったのが先にも記載した高橋是清である。
日本崩壊の寸前で、高橋是清が再度現れ、日本経済を立て直してしまったのです。
つまり、左翼にとって高橋是清は、正に目の上のタンコブだった事を頭に置いておいて下さい。

この時に共産党が目を付けたのが東北地方(東北地方は)で、共産主義を根付かせる為にデフレ不況を意図的に起こし、国民の思想に共産思想を浸透させるのが狙いだったのです。
自らが保管するコミンテルンの資金価値を上昇させ、(デフレ下では、現金を有する者がそれを保管するだけで、その価値を増していくのです。つまり、60万円を箪笥貯金して置くだけでその価値が上がるのである)同時に、国民を苦しめることで、共産思想の浸透を謀り、その支持を拡大させる。
これが、当時国内で支持基盤が無い左翼の初期段階での戦略だったのです。
 これは、関東大震災に於ける日本国政府の対応として、朝鮮への出資を抑える事無く、国内の財政縮小(デフレ誘導)による対応で国難に対処するとする政策への疑問を呈し、東北の住民が生活困難に陥った事を利用し、皇道派の多い東北出身者を天皇陛下に「暴徒」として制圧させ殺害し、この地方での皇室に対する不信感を植え付けることも同時に行っているのです。
更に、日本軍の中枢で統制派が主導権を握り、日本が戦争へと至る切っ掛けとなったのが、226事件である。
桜会は、十月事件後に解散しているんですが、この解散にも大きな疑義が生じているのです。
この解散に、あれっと思った方はいい感性を持っていますね。
これは、官僚を牛耳る為に設立した新人会が解散したことと、ある意味同じで、既に最終局面に入った事を意味していると同時に、解散することで批判の火の粉が飛び散らない様に前もって解散したのです。
その証拠に、あの226事件後、統制派が日本軍の中枢に潜り込むことにまんまと成功したのです。
このことは、天皇陛下が後に、1936年の226事件を起した皇道派を憎み、この事件を軍部支配のために利用していった統制派を批判されていたことでも理解出来るでしょう。
つまり、陛下は226事件の本当の黒幕(仕掛け人)を認識していたです。

 では、その事を頭に置き解析していきましょう。
 同会に所属していた多くの統制派(共産主義者)将校が226事件勃発後、陸軍内で台頭していったのである。
つまり、226事件とは、共産主義者が日本軍の中枢で発言力を得る為の自作自演だったのです。
この事件後、従来の反ソ路線を廃して反英反中へと転換させたことも、ソ連の意図が関与した考えると関東軍が駐屯している戦略的意義を蔑ろにして、対ソから対中へと方針転換させた近衛内閣(朝食会や昭和会という知識人(共和国主義者)による政策意見交換の場を設け、日本国崩壊の謀議を繰り返していた)の意図が理解できるだろう。
それを裏付けるように、この政策の根拠となる決定が、1928年の第6回コミンテルン会議でスターリンが指示した「敗戦革命」なのです。
敗戦革命とは、帝国軍同士(日本軍と国民党軍)を戦争に追い込み国家体制を弱体化させた後、共産革命を起こし共産圏を拡大させることをいう。
つまり、国民を戦争という大義名分により殺害し、且つ、尊皇派への国民の支持を軽薄化した後、革命を実行する事が敗戦革命と並行して実行されたのが、大東亜戦争なのです。
 桜会は政党内閣を廃して軍事政権を樹立する国家改造構想を抱いていました。
これは、統制派のリーダーである陸軍省軍務課長の永田鉄山が1931年に書いた「皇政維新法案大綱」に繋がっているのです。
コミンテルンが描いたシナリオは、あくまでも戦争は天皇を元帥とする帝国主義、富国強兵の国策が至らしめたものであり、日本国政府はその動きを抑えきることが出来なかったと主張する為の軍人主体での戦争であるとする工作であって、国民は日本軍の被害者(左翼勢力はこの方針を悪用し、天皇陛下に戦争の責任を負わせ、反君が代、反日の丸に結び付けて、国体の解体を謀り、実行している)であるとする為のカモフラージュを行っているのです。
彼らは1930年9月にコミンテルンの指示で「桜会」を結成し、参謀本部や陸軍省の中佐以下の中堅将校100余名を巻き込み、その一部の共産主義者が主導した巧妙な茶番劇だったのです。




桜会は大川周明らと結託して、1931年(昭和6年)3月の三月事件、同年10月の十月事件を計画しますが、いずれも未遂(これらの事件は、あくまでも事件を起こそうとしたとする既成事実として計画されたものであり、統制派の真の狙いは、226事件で日本軍の中枢を制圧する事なのです)に終わっている。
この事で、結果的に軍部の独走を助けたとされているが、この未遂事件、未遂の為の未遂では無かったのか。
未遂に終わらせ、事をあからさまにする事により桜会を解散させ、226事件での責任を皇道派に負わせ、統制派にその責が及ばないよう謀ったのではないかという疑義が色濃く残るのです。
この絡繰りに、国民は、まんまと騙されたのではないだろうか。
つまり、十月事件を失敗に至らせた後、桜会を解散させた上で、226事件を起こさせて皇道派の一掃を謀り、コミンテルンの手先である統制派が日本軍の中枢にまんまと潜り込んだのである。
改めて考えてみると、この共産主義者の工作の周到さは、現在の左翼が、戦後、活発化した学生運動で過激な行動に走る若者たちが共産主義への熱が冷め、活動の鎮静化が進み、政治運動に一定の距離感を保ち始めた感情が国民の間に漂っている事を利用し、似非街宣右翼を用い、国民に右翼(日の丸)への嫌悪感を植え付けることにまんまと成功したのです。
考えてみれば、学生運動も似非右翼も共に、左翼の活動なのです。
この事に、国民は再び騙されようとしているのです。
以上の経過を辿り、左翼は現在、国家機関の中枢を占め、再び、政策の主導を成しているという事実が、戦前の左翼の政界、軍部中枢への浸透手法とダブってしまい、とても怖いですね。

少し飛んでしまいましたので、桜会へとまた戻ります。

桜会の人員ポストは
■陸軍省 9名
■参謀本部 38名
■教育総監部 2名
■陸軍大学校(在籍中) 15名
■憲兵司令部 7名
■そのほか 25名

となっている。
以後、桜会のおおまかな流れを記載してみる。

参謀本部にこれだけの人員がいるのはすごいことである。
桜会はほとんど参謀本部所属の陸大卒少壮将校(中堅幕僚)によって構成されていたと見ていいだろう。
ついでに、桜会の者で陸大を出ていない、陸士あがりの課員が2人いる。秋草大尉と天野中尉である。
この二人は陸大を出ていないのに参謀本部に配属されたということから相当な実力をもっていたようである。

例えば秋草大尉は、近衛歩兵第一連隊から東京外語へ委託学生として覇権され、ロシア語を修得し、かなりロシア語に堪能であったと定評があった。
また、昭和13年7月に創設された後方勤務要員養成所の創始者でもある。
後方勤務要員養成所、後の陸軍中野学校(通常東部第三三部隊)のことである。

また桜会には有名な人間が数多く在籍している。
名を挙げてみれば、
牟田口廉也、根本博、河辺虎四郎、土橋勇逸、武藤章、富永恭次、長勇、片倉衷、辻政信・・・
などは少し陸軍のことを知っている方なら「ああ、あの人か」とすぐ思いつくだろう。

さらに余談であるが、陸士卒と陸大卒の大きな相違は陸士卒が退役までずっと隊付将校として軍隊の骨幹を形成するのに対し、陸大卒にとっての隊付は全然違う。
一定年月隊付勤務をすることは単に出世のためのワンステップであり、将官に昇進直前になって隊付期間の不足を理由に予備役編入された例もあるくらいだ。

大抵の陸大卒業生は原隊へ復帰して中隊長等の職務について1,2年後、中央三官衛の各課に配属されるのが普通であった。一部の者は陸士や歩兵学校の教官、軍、師団の参謀に派遣されることもあった。
これは卒業序列の上のものからいいとこへ行けると解していいだろう。
(また恩賜組には権利みたいものがあってこれを「株」と称していた。)
ついでに、陸士の教官は陸士出が担当することになっていて、昭和9年8月に辻政信(当時は大尉)が陸士の中隊長になったのは異例のことであった。
これは彼が強く希望して実現したもので、辻はこの職務において士官学校事件に関与することとなる。もとよりこれを狙っていたのは間違いあるまい。
恩賜の軍刀を授かる優秀な成績で出た者には先に述べたように海外派遣か、作戦関係の部署に配属された。
話を戻して・・・。

会の目的は端的に言うと
「国家改造を以て終局の目的となしこれがため、要すれば武力を行使するを辞せず」
ということであり、3月事件、10月事件に暗躍した。

3月事件とは、昭和6年3月、桜会の橋本、長ら中堅将校が立案して、それを小磯国昭軍務局長、建川美次(参謀本部第二部長)、重藤千秋(参謀本部支那課長)らが支援した。密かにではあるが陸軍次官杉山元、参謀次長二宮治重も支援者であった。
さらに大川周名、徳川義親、清水行之助ら民間人に亀井貫一朗、赤松克麿の無産政党までもが加担していた。

シナリオは、今開催中の議会(第59回帝国議会)を大川・亀井等が一万人の大衆を動員して議事堂を包囲し、鎮圧の名目で軍隊を出動させる。この混乱に乗じて宇垣陸相を担ぎ出して軍部独裁政権による国家改造を断行しようとするものであった。
が、結局この計画は宇垣・小磯らの動揺→変心で中止となった。

実はこのシナリオの土台となったのは永田鉄山が計画案を立案し、それを橋本らが編集し直したという話もある。

事件に対する首謀者の処罰もなくウヤムヤに終わったおかげで、満州事変の当事者にある程度の安心感を覚え、10月事件へ、青年将校は226事件へと波及することになろうとはこの時、陸軍中央は想像もしてなかった・・・。
3月事件については陸相宇垣も一枚噛んでいたし、彼らを取り締まるべき立場である軍務局長らでさえ加担していたのだから証拠隠滅も可能であった。
ちなみに宇垣らが支援したのはただ若い連中から取り残されるのを恐れた為であったという。折しも下克上の空気が蔓延していたのが一因であろう。

のちに内大臣木戸幸一は東京裁判において
「3月事件がその後もろもろの事件の元凶である」と指摘した。
さすがに鋭い洞察力を持っている。
だてに内大臣という要職を任されてはいないのだ。


同年10月には、同じ桜会メンバーで今度は9月に石原・板垣らが中心となって勃発させた満州事変を成功させるための国内改造を狙い、当時青年将校らから大人気であった荒木貞夫教育総本部長を首班とする革新政権を樹立せんとした事件、10月事件が起こった。
橋本欣五郎はこれを「錦旗革命」と称した。
さて事件は起こったというよりも今回もまた、未遂に終わったのである。
これは荒木に担がれる気がなく、内部分裂、脱落なので結局断念せざるを得なくなったというものである。
今回の首謀者達には転属・訓告など軽い処分を受けたが、今回もまた上層部には波及しなかった。


しかし桜会はこの事件をもって一応解散となり、派閥的には少数派である清軍派に転落していった。
清軍派は皇道派を嫌い、後の皇道派と統制派の対立の中で統制派に加わっている。
さらに付け加えると、石原らの満州派が統制派に加わったものを「新統制派」と呼称する場合があるので気を付けておきたい。


軍人の政治介入に関して、宇垣は戦後回想録の中で、自分自身は三月事件に関わりなかったと述べている。
しかし、彼が無関係であろうはずもなく、桜会に便乗する形で内閣首班を考えていたであろうことは否定できない。
そういえば、陸相を通じる以外の軍人の政治関与は軍人勅諭でも
「世論に惑わず政治に拘わらず・・・」
と禁じられてきたところ、昭和6年1月に陸相宇垣自らが
「国防は政治に優先する」
と述べて、軍人の政治関与を是認しているではないか。

ともかくも宇垣の人望はこの三月事件で完全に潰えたと言える。
後の昭和12年に広田内閣の後を受けて組閣の大命が彼に下ったが、陸相のなり手が得られず、流産内閣となった。
これは宇垣軍縮の復讐というよりも、三月事件での心変わりへの反感によるものと言えるだろう。

三月事件のあと、宇垣は浜口内閣の余命が短いことを確信し、サッサと伊豆長岡の旅館に引きこもった。いずれ自分にお鉢が回ってくるだろうから、それまでのんびりしようと思ってたのであろうが、4月14日に第二次若槻内閣が成立し、6月になってようやく彼に回ってきたのは予備役編入と島流しとも言える朝鮮総督のポストだった・・・・。

荒木貞夫は、1918年のシベリア出兵当時、シベリア派遣軍参謀で、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。
そのため荒木は反ソ・反共の右派的体質を身につけただけでなく、ソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者でしたが、226事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線から退く結果に至ってしまった。


橋本欣五郎は、トルコ公使館付武官でしたが、この時、ムスタファ・ケマル・パシャの革命思想に接して、その後の趣味は「革命」。
帰国後、参謀本部ロシア班長となり、1930年に参謀本部の将校らと密かに桜会を結成。
三月事件・十月事件を計画するも失敗に終わり、桜会は解散させられる(しかし当の本人は軽い刑で済んでいる。当時日本最強の陸軍部隊であった関東軍にいた石原が陸軍中央部に圧力をかけたためといわれている)。
戦後の東京裁判において、A級戦犯として起訴されたのは、連合国側が三月事件・十月事件を「侵略計画の発端」とした事が最大の要因であると推測されている(木戸幸一も同様の見解を示していた)。

また、226事件の際には、自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、予備役へ回される事となる。

その後、日中戦争の勃発に伴い、再び召集されたが、南京攻略戦の際に日本海軍の攻撃機に南京から脱出する船舶を攻撃するようにと命令し、アメリカの砲艦パネー号(正しくはパナイ号)を撃沈し死傷者を出し、さらにイギリス砲艦レディバード号にも被害を与えた(レディバード号事件)という責任を取って陸軍砲兵大佐で退役した。

同年大日本青年党(のち大日本赤誠会に改称)を組織しファシズム運動を展開、近衛文麿首相が掲げる新体制運動にも積極的に協力した。
1942年の翼賛選挙で衆議院議員に当選し、翼賛政治会総務に就任した。



日本ファシズムを規定するならば、


A1.家族主義的傾向
A2.農本主義思想の優位
A3.アジア民族解放の理念
A4.反資本主義的傾向


というイデオロギーを含んだ、


B1.経済恐慌
B2.対外危機の切迫


による、


C.小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、自作農上層、学校教員、村役場の吏員、僧侶、神官


を社会的担い手にした運動である。

作者が書いているとおり、丸山眞男『現代政治の思想と行動』(未来社)所収の論文に依拠した規定ではあるが、本書の基本的視座は、桜会クーデター計画に端を発する陸軍内軍閥抗争の開始から、皇道派および統制派をA2「農本主義思想の優位」A4「反資本主義的傾向」に焦点を絞って分析するところだろう。

いわば本書は陸軍軍閥抗争史であり、社会的担い手や対外状況の分析、軍外部の民間右翼はとりあえず分析対象から捨象されている。

大川周明、北一輝、井上日召と軍の関係は多少言及されているが、権藤成卿や橘孝三郎、田中智学や細木和子の夫であった安岡正篤などについては残念ながらほとんど記述がない。もちろん彼ら民間右翼の軍への影響は非常に希薄であっただろうが、社会的担い手の問題とともに論じて欲しかった。

ちなみに本書には、小さい活字二段組で150ページにわたる一次資料が収録されているのだが、みすず書房『現代史資料4 国家主義運動1』『現代史資料5 国家主義運動2』と重複するものが3点しかなく、貴重なものといえる。

概して派手さはないが、陸軍内部の抗争を通史的に概観するのに便利な1冊である。なお復刻版『軍ファシズム運動史』が原書房から出ているが、こちらも絶版である。




付録資料目次

皇政維新法案大綱(昭和6年9月)
昭和7年1月○○大佐手記(いわゆる田中清手記)
桜会趣意書および桜会人名録
荒木陸相の斎藤総理への書簡および緊急施策基礎案(昭和9年1月)
政治的非常時変勃発ニ処スル対策要綱(昭和9年1月5日改訂)
国防の本義と其教化の提唱(昭和9年10月1日)
麻生久「陸軍のパンフレツトに就て」(昭和9年10月)
士官学校事件計画の概要(昭和9年11月)
軍政権樹立と大陰謀発覚(昭和9年末)
全皇軍青年将校に檄す(昭和10年2月)
昭和の安政大獄(昭和10年6月)
総監第一回長官会議開陳ノモノ(昭和10年7月12日)
教育総監更迭事情要点(昭和10年7月)
軍閥重臣閥の大逆不逞(昭和10年7月)
陸海軍青年将校に檄す(昭和10年8月)
永田最後の意見具申原稿(昭和10年8月11日)
陸軍当面の非常時政策(昭和10年9月18日)
戒厳司令部職員表(昭和11年2月27日)
二・二六事件日誌(編者作成)
内閣更迭の場合陸軍大臣の入閣条件として要求すべき事項(昭和12年1月23日参謀本部)
軍務課政変日誌(昭和12年1月)
林内閣の政綱案(昭和12年1月)
林内閣成立の経緯(浅原健三日記 昭和12年2月)
重要産業五年計画要綱(昭和12年5月29日)






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